ヒュームとヴォルテールの論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
「ロリアン襲撃」の記事における「ヒュームとヴォルテールの論争」の解説
ロリアン襲撃の後、デイヴィッド・ヒュームとヴォルテールの間で戦闘に関する論争が起こった。1755年に出版され、ヴォルテール作とされたHistoire de la guerre de mil sept cent quarante et un(「1741年の戦争の歴史」の意。しかしヴォルテールは後にその出所を疑い、盗まれた草稿から「歪められた、原型を留めない」形で出版されたと主張した)は1746年のロリアン襲撃について言及した。それによると、敗戦の責任はシンクレアにあり、シンクレアを散々に批判した後「これらの大軍は真剣で恐ろしい戦争において、ミスと笑いもの以外の何も生み出さなかった」と結論付けた。 この批判はヒュームの知るところとなり、彼は1756年1月に遠征に参加した兵士と連絡してシンクレアにより同情的な記述を書いた。ヒュームに近しい者の多くは彼に出版を勧め、ヒュームは草稿を書いた。Descent on the coast of Brittany in 1746, and the causes of its failure(「1746年のブルターニュ海岸への襲撃、およびその失敗の原因」)は同年、七年戦争が勃発した直後に完成した。ヒュームはこの著作で「とある外国の作家は真実を確かめることなく、ただその物語を面白おかしく書くことに注力し、この遠征を嘲笑おうとした。しかし、彼の記述には一かけらの真実もなく、真実のようにも見えなかったため、時間を浪費して論駁する必要もない」とヴォルテールを名指しせずに批判した。 また、4月にはマンスリー・レビュー(英語版)で匿名の手紙が出版されたが、これは後にヒュームにより署名され、数人の学者もその手紙はヒュームが書いたものだとした。手紙はフランス語に翻訳され、1756年にJournal britanniqueで出版されたが、手紙に対する返信はなかった。
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