パーダーボルン司教領の終焉
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「アルテンベーケン」の記事における「パーダーボルン司教領の終焉」の解説
1756年2月18日と1757年1月19日にアルテンベーケンで地震があった。同年8月には七年戦争の影響がこの村に及び、住民を苦悩と貧困に追いやった。飢餓のために大勢が死亡し、家屋が破壊された。 1766年5月、突風が吹き荒れて多くの建物に被害が出た。6月には泉も涸れるほどの干魃が起きた。この干魃は翌1767年1月まで続いた。同じ時期に再び地震があり、建物がひび割れた。1769年に司教領内で最初の火災保険が提供された。この頃多くの家は藁葺き屋根であった。石の屋根の家は1年間保険に加入できなかった。 1803年に帝国代表者会議主要決議に基づきプロイセン領となったことで、司教領主による土地所有は終焉した。プロイセンは新たな行政組織を命じ、領域は「郡」に分割された。アルテンベーケンは、(現在と同様に)パーダーボルン郡に属した。1811年12月23日の法令により農民たちは十分の一税を現金で納めなければならなくなった。この頃多くの農場は戦禍により借金を抱えていた。労働者は、鉱山や製鉄所で賃金を得ていた。農地の強制競売がアルテンベーケンでも行われた。その後も凶作によってこの村にさらなる困窮と飢餓がもたらされ、誰も村長をやりたがらない状態となった。アルテンベーケンは1815年から最終的にプロイセン王国領となった。 ナポレオン時代、この村はヴェストファーレン王国ヘクスター県のカントン・ドリーブルクの一部であった。この頃のアルテンベーケンの人口は 650人であった。1871年以降はドイツ国の一部となった。
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