パウロとバルナバ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:57 UTC 版)
「バルナバによる福音書」の記事における「パウロとバルナバ」の解説
Hajj Sayedはガラテヤの信徒への手紙中のパウロとバルナバとの争いの描写がパウロの時代にバルナバによる福音書が存在したという考えを支持していると主張している。対照的にBlackhirstはこの議論に関するガラテヤ書の説明が福音書の作者が福音書をバルナバに帰する理由となったと提議している。パウロはこう書いている(Galatians Chapter 2): さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 —ガラ 2:11–14 、新共同訳 パウロは割礼のようなユダヤ人の律法を守ることで「ユダヤ人を満足させよう」とした点でペトロを攻撃している。この点でバルナバはペトロに従ってパウロに反対したとされている。このことは当時のガラテヤの住民がパウロの信仰に反対する福音書を用いており、バルナバによる福音書もそのうちの一つだったことを示していると感じる者もいる(が、ペトロの手紙二との兼ね合いでペトロによる福音書の方が彼らの用いていた福音書としてより自然であると考えられる)。ガラテヤ書の説明に対してバルナバによる福音書の導入的な章を比較することができる: Dearly beloved the great and wonderful God hath during these past days visited us by his prophet Jesus Christ in great mercy of teaching and miracles, by reason whereof many, being deceived of Satan, under presence of piety, are preaching most impious doctrine, calling Jesus son of God, repudiating the circumcision ordained of God for ever, and permitting every unclean meat: among whom also Paul hath been deceived, whereof I speak not without grief; for which cause I am writing that truth which I have seen and heard, in the intercourse that I have had with Jesus, in order that ye may be saved, and not be deceived of Satan and perish in the judgment of God. Therefore beware of every one that preacheth unto you new doctrine contrary to that which I write, that ye may be saved eternally. —Introduction to the Gospel of Barnabas 前の章句から、最初からパウロとバルナバは互いに仲良くしていたのではないかと主張される; しかし最終的には彼らはユダヤ教の律法を重要視するかどうかで別れることになる。
※この「パウロとバルナバ」の解説は、「バルナバによる福音書」の解説の一部です。
「パウロとバルナバ」を含む「バルナバによる福音書」の記事については、「バルナバによる福音書」の概要を参照ください。
- パウロとバルナバのページへのリンク