バンクーバー暴動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:50 UTC 版)
1907年始めにアメリカ合衆国での転航禁止令によって日本人移民が渡航先をアメリカからカナダに変更したため、カナダ入国移民が急増したことが背景にあった。また、カリフォルニア州での排日運動に刺激されたという見方もある。 1907年9月7日、カナダのアジア排斥同盟の組織メンバーは市役所前で人種差別的な演説会を開いた。内容はアジア系移民の入国制限を訴えるものだった。演説に刺激された群衆はバンクーバーのチャイナタウンと日本人街を襲撃した。差別的なスローガンを叫びながらチャイナタウンに侵入した9,000人は投石などによる窓ガラスや家具の破壊活動を行い、数千ドル相当の被害を与えた。負傷者は二名ほどの小規模なものだった。群集は続いて日本人街(ジャパンタウン)に乱入した。しかし、チャイナタウンの住民が無抵抗であったのとは対照的に、日本人住民は日本刀や、棍棒や瓶で武装し、反撃した。この日系住民との衝突によって、地元新聞が「排日暴動」として報道し、カナダ全土の注目するところとなった。 事件を重く見たカナダ政府は調査委員会を設置し、日本へ特使を派遣した。カナダ政府は損害賠償として日本人被害者に9000$、中国人に26000$が支払われた。 アジア排斥同盟はこの暴動直後に最も大きな勢力を誇ったが、翌年以降は勢力を減少させていった。しかし1920年代初頭、アジア排斥同盟は再び浮上する。1923年に中国系移民を実質的に排斥する華人移民法(Chinese Immigration Act)が成立するが、この法案の審議中にアジア排斥同盟は4万人のメンバーを擁して要求を行っていた。
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