バルカン半島での対パルチザン戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:42 UTC 版)
「第21SS武装山岳師団」の記事における「バルカン半島での対パルチザン戦」の解説
師団長にはアウグスト・シュミットフーバーSS大佐 (後に、少将に昇進)が就任し、本格的な活動を開始した。この部隊は東部戦線には投入されることなく、アルバニアとユーゴスラビアにおいて活動を活発にさせていたパルチザンとの戦闘、一般SSの任務に近い民族浄化等を行なった。 ユーゴスラビア王国政府は1918年から1941年の間にコソボで広範囲に及ぶ土地収用を行い、そこに大量のセルビア人とモンテネグロ人を植民していた。師団はこれらのセルビア系住民の民族浄化に従事し、コソボでは約1万人のセルビア人が命を落とし、7万5千人のセルビア人が周辺地域へ逃亡することになった。 さらにコソボにいるユダヤ系住民をゲシュタポへ引渡し、強制収容所へ送り込む任務も行なった。しかし、戦前コソボにいたユダヤ人は520人だが、この師団が引き渡したユダヤ人は210人であり、他の地域と比較するとユダヤ人の生存率が62%とむしろ高い地域になっていた。これは、地元のアルバニア人がユダヤ人を助けようとしていたためであるとも言われている。 しかし、ドイツ軍がパルチザンの活動の活発な地域から撤退を始めると、強制的に徴兵されたアルバニア兵達の脱走が続出し、編制から半年余りたった1944年10月には、はやくも師団は内部から崩壊を始めた。11月の終わりには、師団を構成する人員は3500人しか残らず、部隊の維持が困難となった。そこで残存部隊はスコピエにおいてギリシアから撤退してきた部隊(一部ドイツ海軍の水兵も含む)を元に、ドイツ人を中心とする「第21SS山岳師団 スカンデルベク」に再編成された。師団はギリシアから撤退してきたドイツ軍E軍集団に配備されアレクサンダー・レーア上級大将の指揮下、プリンツ・オイゲン師団とともに、マケドニアのヴァルダル川の守備を行なった。 1945年1月までに、スカンデルベク師団は、コソヴスカ・ミトロヴィツァへ撤退し、その後、ボスニア・ヘルツェゴヴィナのブルチコへ撤退した。
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