バリャドリード論戦と晩年の執筆活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:10 UTC 版)
「バルトロメ・デ・ラス・カサス」の記事における「バリャドリード論戦と晩年の執筆活動」の解説
1547年6月、再びスペイン宮廷に戻ってロビー活動を始めたラス・カサスの前にインディオへの征服活動の正当性を主張する強力な論敵が出現する。アリストテレス研究の権威として知られた神学者フアン・ヒネス・デ・セプルベダである。1550年からバリャドリードで行われたインディアス会議ではセプルベダとラス・カサスが交互に出頭して自説を述べ、自らの意見こそ正しいと盛んに論じた。これを「バリャドリード論戦」という。会議の中では植民者たちからエンコミエンダの世襲制の許可が願われたが、ラス・カサスの反対により見送られた。 1551年以降、ラス・カサスはバリャドリードのドミニコ会神学院に腰をすえて執筆活動と啓蒙活動に専念することを決意、チアパスの司教位を辞退した。神学院で執筆活動に専念していたこの時期、インディアス史の資料としてコロンブスの第一次航海の日誌をまとめ、要約の形で書き写した。現在、コロンブスの第一次航海の資料は失われているため、ラス・カサスによるこの要約のみが航海の様子を知る貴重な資料となっている。この後も継続的に執筆活動とインディアンの権利保護のロビー活動を続けた。この頃の著作では自分が若き日にインディアスへの黒人奴隷の導入をやむなしとしたことへの悔恨と、奴隷制度自体の不当性を主張している。ラス・カサスはいまや「全インディオの代弁者」であった。 1561年になると、体力の衰えを感じたラス・カサスはマドリードのアトチャ修道院に移り、自らの著作をまとめ始めた。やがて急速に体力が衰え、1566年6月20日、ラス・カサスはアトーチャ修道院で波乱に満ちた生涯を終えた。遺言によってラス・カサスは著作のすべてをドミニコ会神学院に寄贈したが、時が来るまでそれらを公にしないよう言い残している。教皇ピウス5世が従来スペインのインディアス支配の根拠とされていたアレクサンデル6世の「贈与大勅書」がインディアス征服を正当化するものでないというローマ教皇庁の正式見解を示したのは、ラス・カサス死後2年目の1568年のことであった。
※この「バリャドリード論戦と晩年の執筆活動」の解説は、「バルトロメ・デ・ラス・カサス」の解説の一部です。
「バリャドリード論戦と晩年の執筆活動」を含む「バルトロメ・デ・ラス・カサス」の記事については、「バルトロメ・デ・ラス・カサス」の概要を参照ください。
- バリャドリード論戦と晩年の執筆活動のページへのリンク