バシリスクスらによる反乱(475年)
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「ゼノン (東ローマ皇帝)」の記事における「バシリスクスらによる反乱(475年)」の解説
即位して間もない475年、ゼノンに対する大規模な反乱が起きた。反乱を起こしたのはレオ1世の妻ウェリナ(英語版)、レオ1世の義弟バシリスクス、バシリスクスの甥アルマトゥス(英語版)、ゼノンの盟友だったイサウリア人の将軍イルス(英語版)、アスパルの姻戚で「全ゴート人の王」と呼ばれていたゴート人の将軍テオドリック・ストラボらの連合勢力だった。ゼノンは反乱軍と対決することを避け、可能な限りの金銭をかき集めて故郷イサウリアへと逃亡した。このときゼノンの弟ロンギヌス(英語版)が逃げ遅れてイルスの捕虜となった。反乱軍は抵抗にあうことなくコンスタンティノープルへと入城したが、コンスタンティノープルの金銭を当てにしていた連合勢力は当面の費用に困ることになった。ウェリナは彼女の愛人を皇帝にすることを弟のバシリスクスに求めたが、バシリスクスは自ら皇帝を名乗り、息子のマルクス(英語版)を共同皇帝に任命し、ウェリナの愛人を処刑した。皇帝となったバシリスクスは甥のアルマトゥス(英語版)にもマギステル・ミリトゥムの地位を与えようとしたが、これはアスパルの後任としてマギステル・ミリトゥムの地位にあったテオドリック・ストラボを激怒させた。またバシリスクスはコンスタンティノープルで嫌われていたイサウリア人を虐殺したが、これはイサウリア人の将軍イルスに不満を抱かせることになった。バシリスクスの陣営からはテオドリック・ストラボが離脱し、ゼノン討伐のためにイサウリアへと向かっていたイルスもゼノンに寝返ってゼノンとともにコンスタンティノープルへと進軍を開始した。バシリスクスは防戦のためにアルマトゥスを派遣したが、ゼノンはアルマトゥスにマギステル・ミリトゥムの地位とアルマトゥスの息子バシリスクス(英語版)を副帝に取り立てることを約束してアルマトゥスを寝返らせた。翌476年、ゼノンは何の抵抗も受けずにコンスタンティノープルへと入城し、バシリスクスとマルクスの両皇帝を捕らえて処刑した。ゼノンはアルマトゥスとバシリスクスの親子を副帝に取り立てたが、翌477年にはアルマトゥスを暗殺し、子のバシリスクスも修道院へ入れて副帝の地位を剥奪した。イルスはゼノンの弟ロンギヌスを人質として確保していたこともあり元の地位に留まることができた。 ゼノンは反乱に参加していたテオドリック・ストラボをマギステル・ミリトゥムから罷免し、代わりにテオドリックをマギステル・ミリトゥムに任命した。ゼノンはテオドリックをパトリキ(貴族)に取り立て、テオドリック・ストラボの討伐を命じた。しかしテオドリックがゴート人を率いて戦場へと到着すると、合流するはずであったローマ人の軍団は到着していなかった。何の援軍もなしにテオドリック・ストラボの軍団と対峙することになったテオドリックはテオドリック・ストラボによって巧みに説得され、テオドリック・ストラボの陣営へと降った。ゼノンは初め金1000リーブラ、銀1万リーブラ、年額1万ソリドゥスの条件を提示してテオドリック・ストラボからテオドリックを切り離そうと試みたが、この交渉は失敗に終わった。次にゼノンはテオドリック・ストラボとの交渉を行い、478年に彼をマギステル・ミリトゥムの地位に復帰させる条件でテオドリック・ストラボとの和解を実現した。
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