ハーラルのルーン石碑と事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 09:13 UTC 版)
「ハーラル1世 (デンマーク王)」の記事における「ハーラルのルーン石碑と事績」の解説
ハーラルの石碑 B面。右は彩色された"イェリングの獣"。 ハーラルの石碑 C面に彫られたキリスト像 イェリング墳墓群には、ゴーム老王が妻テューラを記念して建てた第1イェリング石碑(ゴームの石碑)とハーラルが両親のために建てた第2イェリング石碑(ハーラルの石碑)がある。ゴームの石碑は高さ139cmの直方体で目立った装飾もないが、併置されたハーラルの石碑は高さ243cmの三角錐型で、碑文に加えスカンディナビア最古のキリスト図像と"イェリングの獣"と呼ばれる獣の図像が彫られており、これらの図像は当時おそらく彩色されていた。この二つの石碑は、16世紀に土中から発見され墳丘の間に設置されたため建立当時の正確な位置は不明だが、近接した場所から発掘されており、ハーラルの石碑は、当時の人々に対しても素朴なゴーム石碑と対比させることで自身の権威を示しデンマークがキリスト教国家であることなどを確認させる機能を持たせていたものと見られる。 ルーン文字 ラテン文字転写 (A面) haraltr : kunukR : baþ : kaurua kubl : þausi : aft : kurm faþur sin auk aft : þąurui : muþur : sina : sa haraltr (:) ias : sąR * uan * tanmaurk (B面) ala * auk * nuruiak (C面) * auk * t(a)ni (* karþi *) kristną (Jacobsen & Moltke, 1941-42, DR 42) 日本語訳 「王ハーラルは、その父ゴームと母チューラを記念してこの碑を建てるように命じた。 これなるハーラルは、全デンマーク、そしてノルウェーを手中にし、デーン人をキリスト教徒となした。」 ハーラルはシェラン島やスコーネ地方といった当時のデンマーク東部もその支配下におき、ノルウェー北西部の在地有力者であるラーデのヤールたちと手を結んでノルウェーにもその影響力を及ぼし、デンマークの統一、ノルウェーの支配、デンマークのキリスト教化という三つの功績をルーン石碑に刻んだ。この他、デンマーク南の境界線となるダーネヴィアケ堡塁 (Danevirke) の補修作業、直径100 - 200mのトレレボー円形要塞 (Viking ring fortress) や、幅5m 長さ 760mのラウニング・エンゲ橋 (Ravning Bridge) 建設などがハーラル治世に同定されており、ハーラル王権の強大さを物語っている。 晩年、息子のスヴェン(後の双髭王)が反乱を起こし、987年、スヴェンによってユムネ(Jumne)に追われ、戦いに破れて傷を負い、逃げ込んだ森で死んだ。遺体はロスキレの教会に運ばれ、キリスト教の作法で葬られた。 後にスヴェンの息子クヌートの妻エンマに捧げられた『王妃エンマ讃頌 (Encomium Emmae Reginae) 』第一書一節には、ハーラル追放とスヴェン登位の過程が次のように書かれている。 「…彼(スヴェン双髭王)は幼少の頃から深い愛情で全ての人から愛され、ただ自らの父(ハーラル青歯王)からのみ妬まれた。…父の嫉妬はますますつのり、自らの後継者として統治すべきではないと誓いをたてることで、秘密裏にではなく公然と祖国から追放しようと思うまでに至った。憂慮した軍は父を見捨て息子を支持し、熱心に防護した。その結果、戦いとなった。父は傷ついて逃亡し、スラヴ人のもとへ逃げ去ったが、いくらもたたないうちにそこで客死し、スヴェンは騒擾なく王座を手に入れた。」
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