ハーバードとブラトル通り教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:25 UTC 版)
「ウィリアム・ストートン」の記事における「ハーバードとブラトル通り教会」の解説
ハーバード・カレッジの法人としての存在は、カレッジの認証が依存する植民地認証が1684年に撤回されたことで混乱させられることになった。1692年、植民地議会はこのカレッジに対する新しい認証を与える法を成立させたが、貿易省が1696年にその法に拒否権を発動し、カレッジの存続が再度危うくなった。当時総督代行だったストートンはカレッジの統治に関して暫定的な手配を行い、その間に議会が新しい認証作成に動いた。最終的にハーバードの認証問題は1707年になって解決され、1650年の認証が復活した。 ハーバードの支配人たちの派閥間で宗教と政治の意見が食い違ったことは1690年代に後半に大きく問題にされた。当時ハーバード学長だったインクリース・マザーは神学的に保守であり、多くの支配人が中庸な見解を持っていたのとは対照的であり、この時代にカレッジの運営を巡っての闘争が始まった。この分裂は最終的には1698年のブラトル通り教会設立に繋がり、マザーやその息子であるコットンが提唱する極度のピューリタン慣習のあるものからはっきり距離を置く綱領を採用した。ストートンと植民地における宗教や政治で著名な多くの人物が論争に立ち入って怒りを冷まし、植民地の信教的寛大さにたいする姿勢を強化した。その結果得られた和平によって父のマザーが新しい教会の奉納式に参列することになった。
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