ハンセン病菌研究所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 23:45 UTC 版)
「ハンナ・リデル」の記事における「ハンセン病菌研究所」の解説
最初はらい菌研究所といったが、ハンセン病菌研究所ともいう。英文ではlaboratoryといったが本格的な研究所を立ち上げた。細菌学の権威である北里研究所の宮嶋幹之助と建築界の泰斗中條精一郎(宮本百合子の父)がそれぞれ専門の立場から検討、研究所の設計図を仕上げ、清水組が建築を受け持って1918年に出来上がった。初代研究所所長は北里研究所の当時26歳の内田三千太郎である。北里柴三郎、宮嶋幹之助らの推挙があり、今まで北里研究所で月給20円のところ、リデルは年俸1000円とした。最初は建築物が間に合わず熊本大学で研究したが、1年余りを経て建物が完成した。リデルがマスクをかけず病室に入り握手するのをみて彼は吃驚したと書いている。内田は鼠のらいをみつけ、「人らい、鼠らい菌の研究」で、出身大学の新潟医専で学位をとり、研究所入所後3年して慶応大学に転じた。その後田宮貞亮が1919年から1921年にかけ、神宮良一が1926年より1933年に、また池尻慎一が1934年から1937年にかけ在籍し研究した。内田三千太郎と神宮良一はそこでの研究で医学博士号を得ている。また第五高等学校時代の宮崎松記もここで勉強した写真が残されている。ハンセン病研究所は現在熊本市のリデル・ライト両女史記念館となり、種々の資料が展示してある。
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