研究所入所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:19 UTC 版)
「イレーヌ・ジョリオ=キュリー」の記事における「研究所入所」の解説
1918年、第一次大戦が終わると、イレーヌはマリーの研究所に、マリーの助手として入った。イレーヌはそこではじめに、鉱物中の塩素の原子量を求める実験に取り組んだ。イレーヌは研究所の中でも数学や物理の知識については目立ったものがあり、その落ち着き払った性格や、つねに所長であるマリーのそばにいて優遇されていたこともあって、同僚からは王女と呼ばれたりもした。 当時、研究所には放射性物質であるラジウムが1グラムしかなく、マリーはその不足に頭を抱えていた。しかしアメリカの人々による募金によって、ラジウムが無償提供されることになり、1921年、マリーはイレーヌとエーヴを連れて渡米した。そしてアメリカでマリーは大歓迎を受けたが、連日の歓迎行事にマリーは疲れ、体調が悪化してしまった。そのためイレーヌやエーヴがたびたび代理で出席してあいさつなどをした。イレーヌはこのアメリカ旅行で、ニューヨークの光景やグランド・キャニオンなどを見て感銘を受けた。 帰国後、イレーヌはマリーとともに研究を続けながら学位取得のための準備をして、1925年3月に試験を受けて学位を得た。このとき発表した内容はポロニウムのアルファ線についての研究で、会場となったソルボンヌ大学の講堂には1,000人もの聴衆が訪れた。有名なマリー・キュリーの娘であるイレーヌの学位取得は大きな話題となり、フランスのメディアのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズなどでも報じられた。このとき、科学の道を進むことは女性にとって負担にならないかと記者に問われ、それに対して、自分は科学への適性について男女に差は無いと思っている、と答えている。取材が相次いだため、マリーはイレーヌを連れて一時アルジェリアへと旅行に出かけた。
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