研究所設立の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 20:15 UTC 版)
来日当初、パーマーを官立学校で教員養成を担当させようという意見と、文部省で日本の英語教育全体のために研究や指導をしてもらおうという意見があったが、結局、後者が採用された。来日翌月の1922年5月、東京帝国大学で10回に亘る"Modern Methods of Language Teaching"と題する講演を行ったのをはじめ、各地で講演をするようになった。ミッションスクールのアメリカ人教師などから相談を受ける他、各地から文書による相談や訪問者が来るようになった。そこで、何らかの機関を作ってもらいたいと言う声が起こり、1923年2月に、J. V. Martin、Darley Downs、W. R. F. Stierなどがパーマー宅を訪れ"An Association for the Promotion of Research in English Teaching"(仮称)の設立を構想した。相談を受けた澤柳博士は、石川林四郎の参加を求めた。また千葉勉(東京外語)、星野あい(津田塾)、木村重治(立教)、堀英四郎(慶應)、荒木茂(学習院)、小松原隆二(文部省)も参加した。三上参次(東京帝国大学)や市河三喜(東京帝国大学)らが顧問となった。Dr. Spencer Kennard(早稲田)他、数人のアメリカ人教師も研究員となった。松方の他、日東蓄音機株式会社社長の森下辰之助からも経済的援助を受け、名称を"The Institute for Research in English Teaching"と決定し1923年5月に発足した。
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