トヴェリ公位をめぐる内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:51 UTC 版)
「トヴェリ大公国」の記事における「トヴェリ公位をめぐる内紛」の解説
「モスクワ・リトアニア戦争 (1368年-1372年)」も参照 1345年、トヴェリ公コンスタンチンと、その甥であるホルム公フセヴォロドの間に対立関係が生じた。フセヴォロドはモスクワへ亡命した後、ジョチ・ウルスへ訴え出たことで、トヴェリ公コンスタンチンはジョチ・ウルスの裁判に基づき処刑された。コンスタンチンの所領であったドロゴブージ公領は、息子のセミョーンに受け継がれた。一方、トヴェリ公の地位は、当時の継承法(ru)によれば、カシン公ヴァシリーが得るべきものであったが、フセヴォロドはこれを不服として、再度ジョチ・ウルスへ訴え出た。1347年、ジョチ・ウルスはこれを承認し、また、フセヴォロドはモスクワ公セミョーンと、姉妹のマリヤ(ru)との婚儀(なお、セミョーンにとっては3番目の妻)を成立させて後ろ盾を確保した。ただし、翌年にはトヴェリ主教フョードルの仲裁の下で和議を結び、ヴァシリーに公位を譲った。ヴァシリーはカシンを息子のヴァシリーに与え、もう1人の息子ミハイルと、モスクワ公セミョーンの娘ヴァシリサ(セミョーンの最初の妻の娘)との婚儀、さらにはリトアニア大公アルギルダスと、おばのイウリアニヤ(ru)との婚儀を成立させた。ジョチ・ウルスは、1351年にはヴァシリーの公位を正式なものと承認した。 1356年、新たな紛争が発生した。すなわち、フセヴォロドがジョチ・ウルスから勅書を得ようと動きを見せた際に、フセヴォロドは逆に捕縛され、ヴァシリーに引き渡されたことである。翌年、ウラジーミル府主教(キエフと全ルーシの府主教(ru))アレクシー(ru)がこれを仲裁するが、翌年フセヴォロドはリトアニア大公国へ逃亡した(ただし、リトアニア首都大司教ロマン(ru)はこれを帰還させている)。また、ヴァシリーは1362年には、ミハイル(フセヴォロドの兄弟)領の首都ミクリンを包囲している。 1364年、ペストによって、フセヴォロド、ドロゴブージ公セミョーン]が病死した。そして、セミョーンの領有していたベルィー・ゴロドク(ru)をめぐり、ミクリン公ミハイル、ドロゴブージ公位を継いだエレメイ(ru)、トヴェリ公ヴァシリーの間に緊張関係が生じるところとなった。ウラジーミル府主教アレクシーが再度仲裁の道を模索したが、ミクリン公ミハイルが都市を手中にすると、エレメイ、ヴァシリーはミクリンを包囲した。これに対し、ミハイルはリトアニア大公国の支援を得て、逆にトヴェリを強襲し、これを陥落させた。これらトヴェリ諸公の闘争は、1368年にヴァシリーが死去し、ミクリン公ミハイルがトヴェリ公位につくことで決着を見たが、すぐにモスクワ公国との戦いが始まることになる。 1368年、1370年に、モスクワ公(ウラジーミル大公)ドミトリーは軍隊を派遣し、トヴェリは攻囲戦を余儀なくされた。1371年、ミハイルはジョチ・ウルスから、ウラジーミル大公の地位を自身に譲らせる勅書を引き出したが、ドミトリーはこれを黙殺し、再度トヴェリを攻撃した。リトアニアのアルギルダスがモスクワ公国領に侵攻したが、リトアニア軍は率いる連隊を消失し、セルプホフ公(モスクワの分領公)ウラジーミル(ru)と自身の娘との間に婚儀を成立させて、モスクワと和平を結んだ。
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