トヴェリ大公位をめぐる闘争
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「カシン公国」の記事における「トヴェリ大公位をめぐる闘争」の解説
いずれにせよ、カシン公ヴァシリーを含む4人の兄弟とその子孫は、宗主の位置にあるトヴェリ大公位をめぐって権力闘争を繰り広げた。1345年に三兄のコンスタンチン(上記のコンスタンチン)が死亡すると、ヴァシリーは一族の中で最も年長者となった。しかし、1346年にジャーニー・ベクが発した勅令(ヤルルィク)は、次兄アレクサンドルの子のホルム公フセヴォロド(ru)をトヴェリ大公とするものであった。ヴァシリーはこれを認めず、1348年には自身をトヴェリ大公に変える旨の勅令をジャーニー・ベクから引き出した。当然の如くフセヴォロドはこれに反発するが、トヴェリ主教フェオドル(ru)が仲裁に入り、1349年にトヴェリ大公の地位はヴァシリーの手中に収まった。 ヴァシリーがトヴェリ大公となった後、カシン公位はその長子のヴァシリーへ、その死後は次子のミハイルへと受け継がれ、カシン公国が統治された。ヴァシリーと、フセヴォロドら次兄アレクサンドルの子らの関係は依然敵対関係にあり、双方の間に和平的合意が成るのは1360年のことであった。なお、この間に、フセヴォロドら兄弟による、父アレクサンドルの所領の分割がなされていた。すなわち、フセヴォロドがホルムとスターリツァを、ミハイルがミクリンを治め、末子のウラジーミルとアンドレイは、母アナスタシヤと共にズブツォフを治めていた。しかし、1364年から1365年にかけて流行したペストによって、ミハイルを除く兄弟は皆病死したため、結果的にミハイルがこれらの領土をすべて相続することになった。そして1365年、ミハイルはトヴェリ大公位をも奪い、ヴァシリーはカシンへと逃走した。加えて同年末には、同じくペストで病死したセミョーン(ru)の所領クリンをも相続した。 ただし、セミョーンの領地の継承権をめぐり、ミハイルとヴァシリーの間に紛争が生じることとなった。これはミハイルを支援するリトアニア大公アルギルダスと、ヴァシリーを支援するモスクワ公ドミトリー(ドミトリー・ドンスコイ)の軍事介入・衝突へと発展したが、ヴァシリー側の勝利に終わり、カシン公国に政変が及ぶまでには至らなかった。
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