トヴェリ大公位をめぐる闘争とは? わかりやすく解説

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トヴェリ大公位をめぐる闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:51 UTC 版)

カシン公国」の記事における「トヴェリ大公位をめぐる闘争」の解説

いずれにせよカシン公ヴァシリーを含む4人の兄弟その子孫は、宗主位置にあるトヴェリ大公位をめぐって権力闘争繰り広げた1345年に三兄のコンスタンチン上記コンスタンチン)が死亡すると、ヴァシリー一族の中で最も年長者となった。しかし、1346年ジャーニー・ベク発した勅令ヤルルィク)は、次兄アレクサンドルの子ホルム公フセヴォロド(ru)をトヴェリ大公とするものであったヴァシリーはこれを認めず1348年には自身トヴェリ大公変える旨の勅令ジャーニー・ベクから引き出した。当然の如くフセヴォロドはこれに反発するが、トヴェリ主教フェオドル(ru)が仲裁入り1349年トヴェリ大公地位ヴァシリーの手中に収まったヴァシリートヴェリ大公となった後、カシン公位はその長子ヴァシリーへ、その死後次子ミハイルへと受け継がれカシン公国統治された。ヴァシリーと、フセヴォロドら次兄アレクサンドルの子らの関係は依然敵対関係にあり、双方の間に和平合意が成るのは1360年のことであった。なお、この間に、フセヴォロドら兄弟による、父アレクサンドル所領分割なされていた。すなわち、フセヴォロドがホルムスターリツァを、ミハイルミクリン治め末子ウラジーミルアンドレイは、母アナスタシヤと共にズブツォフ治めていた。しかし、1364年から1365年にかけて流行したペストによって、ミハイルを除く兄弟は皆病死したため、結果的にミハイルがこれらの領土をすべて相続することになった。そして1365年ミハイルトヴェリ大公位をも奪いヴァシリーカシンへと逃走した加えて同年末には、同じくペスト病死しセミョーン(ru)の所領クリンをも相続した。 ただし、セミョーン領地継承をめぐり、ミハイルヴァシリーの間に紛争生じることとなった。これはミハイル支援するリトアニア大公アルギルダスと、ヴァシリー支援するモスクワ公ドミトリードミトリー・ドンスコイ)の軍事介入衝突へと発展したが、ヴァシリー側の勝利終わりカシン公国政変が及ぶまでには至らなかった。

※この「トヴェリ大公位をめぐる闘争」の解説は、「カシン公国」の解説の一部です。
「トヴェリ大公位をめぐる闘争」を含む「カシン公国」の記事については、「カシン公国」の概要を参照ください。

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