トゥジマンの死後とは? わかりやすく解説

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トゥジマンの死後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/06 03:36 UTC 版)

クロアチア民主同盟」の記事における「トゥジマンの死後」の解説

こうした中で1999年12月トゥジマン死去したことは、2000年の総選挙にも大きな影響与えたクロアチア民主同盟第1党地位維持したものの、6党から成る中道左派連立敗れたまた、投票率低迷も、クロアチア民主同盟対す国民不信表れ考えられた。この潮流大統領選挙でも確認され、有力とされたクロアチア民主同盟候補マテ・グラニッチ(Mate Granić)は第1回投票3位終わり決選投票に進むことすらできなかった。決選投票では、スティエパン・メシッチ大統領選出された。 2000年から2003年までの間、クロアチア民主同盟影響下で民営企業手中に収め実業家に対して、その不正を追及する裁判が行われた。しかし、民営化方針そのものは変わらなかった。この時代クロアチア民主同盟低迷期であり、再起不可能とさえ思われていた。民主同盟離脱しヴェスナ・シュカレ=オジュボルトとともに民主中道党(Democratic Centre)を結党したマテ・グラニッチ(Mate Granić)も、そのように考えた一人であった旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ICTY)がクロアチア軍指揮官らに対す訴追始めたことがクロアチア国内激し反発を生み、これを機にクロアチア民主同盟勢い回復し始めた。不満を持つ人々政治集会などの抗議運動展開したクロアチア民主同盟とその新し指導者イーヴォ・サナデルはこうした抗議運動加わり抗議者への支持表明したが、やがて抗議運動からは距離をとりはじめ、民主同盟穏健化した評されるようになっていった。これに呼応してクロアチア社会自由党右傾化強め民主同盟中道政党へと変貌していった。2002年クロアチア民主同盟強硬派幹部で、トゥジマン時代最悪過激派一人であったイヴィッチ・パシャリッチ(Ivić Pašalić)が、サナデルと党首地位争い、サナデルのことをトゥジマン時代ナショナリスト路線対す裏切り者として非難した当初、サナデルの劣勢予想されていたが、ブラニミル・グラヴァシュ(Branimir Glavaš)やクロアチアリベラル論者支援得て、サナデルは党大会でパシャリッチに対して勝利を収めた。パシャリッチは党を離れ、クロアチア・ブロックを結党した。こうしてクロアチア民主同盟穏健化の流れ確定的となっていった。

※この「トゥジマンの死後」の解説は、「クロアチア民主同盟」の解説の一部です。
「トゥジマンの死後」を含む「クロアチア民主同盟」の記事については、「クロアチア民主同盟」の概要を参照ください。

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