トゥジマンの死後
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「クロアチア民主同盟」の記事における「トゥジマンの死後」の解説
こうした中で1999年12月にトゥジマンが死去したことは、2000年の総選挙にも大きな影響を与えた。クロアチア民主同盟は第1党の地位を維持したものの、6党から成る中道左派の連立に敗れた。また、投票率の低迷も、クロアチア民主同盟に対する国民の不信の表れと考えられた。この潮流は大統領選挙でも確認され、有力とされたクロアチア民主同盟の候補マテ・グラニッチ(Mate Granić)は第1回の投票で3位に終わり、決選投票に進むことすらできなかった。決選投票では、スティエパン・メシッチが大統領に選出された。 2000年から2003年までの間、クロアチア民主同盟の影響下で民営企業を手中に収めた実業家らに対して、その不正を追及する裁判が行われた。しかし、民営化の方針そのものは変わらなかった。この時代はクロアチア民主同盟の低迷期であり、再起は不可能とさえ思われていた。民主同盟を離脱し、ヴェスナ・シュカレ=オジュボルトとともに民主中道党(Democratic Centre)を結党したマテ・グラニッチ(Mate Granić)も、そのように考えた一人であった。 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)がクロアチア軍の指揮官らに対する訴追を始めたことがクロアチア国内で激しい反発を生み、これを機にクロアチア民主同盟は勢いを回復し始めた。不満を持つ人々は政治集会などの抗議運動を展開した。クロアチア民主同盟とその新しい指導者イーヴォ・サナデルはこうした抗議運動に加わり、抗議者への支持を表明したが、やがて抗議運動からは距離をとりはじめ、民主同盟は穏健化したと評されるようになっていった。これに呼応してクロアチア社会自由党が右傾化を強め、民主同盟は中道政党へと変貌していった。2002年、クロアチア民主同盟の強硬派の幹部で、トゥジマン時代の最悪の過激派の一人であったイヴィッチ・パシャリッチ(Ivić Pašalić)が、サナデルと党首の地位を争い、サナデルのことをトゥジマン時代のナショナリスト路線に対する裏切り者として非難した。当初、サナデルの劣勢が予想されていたが、ブラニミル・グラヴァシュ(Branimir Glavaš)やクロアチアのリベラル論者の支援を得て、サナデルは党大会でパシャリッチに対して勝利を収めた。パシャリッチは党を離れ、クロアチア・ブロックを結党した。こうしてクロアチア民主同盟の穏健化の流れは確定的となっていった。
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