デモンタージュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 01:08 UTC 版)
「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」の記事における「デモンタージュ」の解説
「デモンタージュ(ドイツ語版)」および「連合軍軍政期 (ドイツ)」も参照 占領期および分断時代初期に押し進められた賠償政策はデモンタージュ(ドイツ語版)とよばれる工場・機械設備の接収であった。 特にソ連占領地域で行われたデモンタージュは苛烈なものであった。特に鉄鋼産業では生産能力の8割以上がソ連に接収されている。これは後のドイツ民主共和国工業最大の隘路となった。またカール・ツァイス・イエナの工場も生産能力の大半を接収されている。ソ連占領地域では1946年以降「ソビエト株式会社(ドイツ語版)」が設立され、工場・鉱山・設備がソ連の支配下となり、対ソ賠償となる現物の効率的な生産が勧められた。接収委員会によるナチ関係者などの財産の没収も平行して行われている 西側連合国の占領下にあり、連邦共和国政府の成立後も国際管理下に置かれることとなっていたドイツ最大の工業地帯ルール地方においても激しいデモンタージュが続けられていた。その有様は国外からも同情の声を呼ぶほどだった。また西側占領国も、占領地域からの産品の買い取り価格を市場価格より安価に設定することで、実質的な賠償としていた。1949年10月3日、アデナウアー首相はデモンタージュの中止を要請したが、英仏は当初これを受け入れるつもりはなかった。しかし10月7日にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立すると、英仏と連邦共和国の間で急速に歩み寄りが行われた。11月9日から11日にかけて行われた米英仏三国間のパリ外相会談では、連邦共和国が連合国の安全保障体制に協力すれば、デモンタージュは段階的に停止され、非カルテル化が忠実に進行すれば完全に廃止されるという方針が確認された。11月22日に締結されたペータースベルク協定(英語版)ではデモンタージュの削減が取り決められている。このペータースベルク協定とあわせて、連邦共和国政府にはナチス被害者に対する補償が義務づけられた。 1948年春にデモンタージュ政策は終了したが、この徹底的な徴発はソ連占領地域の大幅な工業力低下を招いた。またソ連占領地域ではその他貿易などでソ連に対して便宜を図る必要があり、総額33億ライヒスマルクを支出している。デモンタージュによってドイツから失われた資産は、1945年から1948年春までの間で総額61億ライヒスマルクに達している。
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