デマン・テギス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 00:36 UTC 版)
ジョグジャカルタ王宮の古い史料 Serat Rerenggan の記述に、タマン・サリの建築家の1人といわれるポルトガル人の男デマン・テギス (Demang Tegis) の話についての言及が見られる。それによると、奇妙な男が突然 Mancingan 村(ジャワ島の南海岸パラントゥリティス(英語版)にある地名)に現れた。長い鼻、白い顔、それに外国語で、村人らはその者が何かの精霊あるいは森の仙人かと怪しんだ。村人は彼を当時のスルタン・ハメンクブウォノ2世に差し出した。スルタンは興味を覚えたらしく、その奇妙な男を下僕とした。数年を経て、ようやく男はジャワ語で話すことを習得した。彼によると、難破によって座礁したポルトガル人(ジャワ語: Portegis)であった。彼はまた建築家であると主張したことから、スルタンは彼に砦を建てるよう命じた。男の仕事に満足したスルタンは彼に「デマン」 (‘demang’) の称号を与えた。それ以降、その者はデマン・テギスまたはデマン・ポルテギス (Demang Portegis) として知られるようになった。 デマン・テギスが本当にタマン・サリの建築家であったかどうかには論争がある。その意匠はポルトガル風ではなく、ジャワとオランダの混合様式のようであり、P. J. ヴェス (P. J. Veth) は、Java – Book III において、「地元の研究によると、『タマンサリの建築物』は、南海岸で座礁した難破船のスペイン人もしくはポルトガル人技師により設計されたといわれる。しかし、その『建築』は、これに反してジャワ的特徴を強く示している」としている。デマン・テギスが存在したような証拠はいまだ不確定であるが、タマン・サリの建築について、2001年にはタマン・サリを調査するために多数のポルトガルの建築や文化遺産の専門家が動員された。 タマン・サリの設計におけるヨーロッパの影響の広範な推定には、パンテオン・ソルボンヌ大学の Hélène Njoto-Feillard の研究により異論が唱えられ、2003年の会議論文に提出された。複合体の歴史的背景および建築様式を分析し、その結論として、創造者はおそらく地元のジャワ人であるとしている。オランダの歴史的記述にタマン・サリの建設のヨーロッパが関与したという言及が何もないことも、この推測を裏付けるさらなる証拠として提示されている。
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