デビュー前からトップレスラーになるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:50 UTC 版)
「新崎人生」の記事における「デビュー前からトップレスラーになるまで」の解説
小中学校時代には新田広一郎と一緒のチームでサッカーをしており、中学生の時にはゴールキーパーとして四国選抜にも選ばれた。徳島県立徳島東工業高等学校(現:徳島県立徳島科学技術高等学校)では柔道部に入部したつもりが、アマレス出身の顧問が赴任してきたため、柔道部はレスリング部に変更され、そのまま在籍(後輩にアレクサンダー大塚がいる)。持ち前の身体能力が生かされアマレスを始めたその年でインターハイにまで進出した。スポーツ特待生として大学から声がかかっていたが、俳優を志していたため卒業後は上京し、、JAC(ジャパンアクションクラブ)に在籍の後、菅原文太(後に新崎の後援会長となる)の付き人などを務めていた。バイト先で同い年であった大塚(後のテリー・ボーイ)に誘われる形でプロレス観戦をするようになる。会場で体格が良いからと見込まれスカウトされる際に「芸の肥やし」になると思い練習に参加、俳優として有名では無かったものの、なにかあると困ると思い覆面レスラーを志願して「モンゴリアン勇牙」として1992年11月19日デビュー(vs獅龍&テリー・ボーイ組。パートナーはバッファロー張飛=引退)。自身は数試合で辞めるつもりであり、菅原の付き人と平行して、そのままユニバーサル・プロレスリングに入団してしまう。ユニバーサルの大半の所属選手がみちのくプロレスに移るとそれに追随し、1993年6月11日、青森・三戸町民体育館での獅龍戦で、四国遍路者のギミックを施したキャラクターレスラー「新崎人生」としての再デビューを果たした。本格的にプロレスラー転向の伴い菅原の付き人を辞め、素顔でやることに対し兄貴分である宇梶剛士にリングネームを相談したところ(本名の健介では佐々木健介と紛らわしいため)宇梶は第一声で『人生はどうだ?』の言葉から現在のリングネームとなった。 デビュー当初はヒールであり、悪役マネージャーのミスター・トヨタを帯同し、トヨタが対戦相手を罵倒するも本人は試合前・試合後を通じ一言も発しないというスタイルを貫いた。試合ごとに「○○番札所(大会の開催地)巡礼」と称し、「八十八番札所」にあたるデビュー88試合でザ・グレート・サスケを倒すことが「満願成就」としていた。デビュー当初から短時間で若手選手を圧倒する試合を続け、「八十七番札所」に当たる能代大会でサスケと初対戦するが両者KO、決着戦となる1994年4月29日の対ザ・グレート・サスケ戦(大田区体育館)では、「念仏ケブラーダ」(後述)を初公開し、当時の団体エースであるサスケからデビュー1年足らずで勝利を収めた。これを機に一躍トップレスラーの仲間入りを果たす。
※この「デビュー前からトップレスラーになるまで」の解説は、「新崎人生」の解説の一部です。
「デビュー前からトップレスラーになるまで」を含む「新崎人生」の記事については、「新崎人生」の概要を参照ください。
- デビュー前からトップレスラーになるまでのページへのリンク