デビスカップ監督時代
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「ハリー・ホップマン」の記事における「デビスカップ監督時代」の解説
1938年から、ハリー・ホップマンはデビスカップのオーストラリア代表監督に就任した。選手時代は1928年-1930年の3度出場のみであったが、監督として傑出した力量を発揮する。ホップマンが監督に就任した1938年は、「アメリカン・ゾーン」の決勝で日本チームとの対戦もあった。この年の代表選手はエイドリアン・クイストとジョン・ブロムウィッチであったが、ブロムウィッチがシングルス第1試合で日本の山岸二郎に敗れている。監督就任2年目の1939年、オーストラリアは「ワールドグループ・チャレンジラウンド」決勝でアメリカを3勝2敗で破り、1919年以来20年ぶりのデ杯奪還を果たした。しかし、この年に第2次世界大戦が勃発する。その間、デビスカップも開催中止を余儀なくされた。 終戦後の1946年にデビスカップも再開されたが、1946年から1949年までオーストラリアはアメリカにデ杯決勝で4連敗を喫したため、ホップマン監督の辞任を求める声が上がった。1950年にオーストラリアは終戦後初のデ杯優勝を果たし、1967年まで通算16度の優勝を達成した。この黄金期に、フランク・セッジマン、ケン・マグレガー、メルビン・ローズ、ケン・ローズウォール、ルー・ホード、アシュレー・クーパー、ニール・フレーザー、ロイ・エマーソン、ロッド・レーバー、ジョン・ニューカムなどの歴史的名選手たちが育っていった。 ホップマン監督の練習は、ランニング・柔軟体操・体育理論などのメソッドを総括した厳格な訓練で、夜間外出禁止などに違反した選手たちには罰金を科すこともあったという。デ杯監督としての在任期間中、ホップマンには“The Fox”(キツネ)“Miracle Man”(奇跡の男)などのニックネームがつけられ、世界中のテニス愛好家からも絶大な尊敬を集めた。彼自身はスポーツ・ジャーナリストの仕事で生計を立てた。 1968年1月10日、妻のネルが脳腫瘍のため58歳で亡くなった。1969年のデビスカップで、オーストラリアは「N&Cアメリカ・ゾーン」でメキシコに「2勝3敗」で敗れる。オーストラリア・チームは5月にメキシコの首都メキシコシティへ遠征したが、メキシコのエースであるラファエル・オスナにシングルス・ダブルス戦とも全敗した。(それからわずか10日後に、オスナは飛行機事故で落命した。)このメキシコ戦の敗戦を最後に、ハリー・ホップマンはデビスカップのキャプテンを退き、1970年からはニール・フレーザーがホップマンの後を引き継いだ。
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