ディーリアス、エルガーとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:02 UTC 版)
「ベアトリス・ハリスン」の記事における「ディーリアス、エルガーとの関わり」の解説
ベアトリスは1918年10月31日にウィグモア・ホールで行われたディーリアスのチェロソナタの初演を弾いており、一方メイはディーリアスのヴァイオリンソナタ第1番を初演している。メイはその後ピアノにアーノルド・バックス迎えてこの曲を録音した。その時の演奏会で彼女らはクィルター作品も演奏したため、彼は両方の演奏会に出席していた。1919年にグレ=シュル=ロワンで書かれたディーリアスのヴァイオリン協奏曲は、同年にクイーンズ・ホール(英語版)において被献呈者のアルバート・サモンズの独奏、エイドリアン・ボールトの指揮で初演された。1920年1月に行われたクイーンズ・ホールのシンフォニー・コンサートで、作曲者が見守る中初演されたディーリアスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲の初演ではハリスン姉妹が独奏を受け持ち、1916年に完成されていた曲は彼女らに献呈された。この後グレに戻ったディーリアスは、ベアトリスの要望によりチェロ協奏曲の作曲に着手する。ベアトリスが6月8日にパリで彼のチェロソナタを演奏するなどする中、ハムステッドのアパートで2か月間集中して作業が進められ、曲は1921年の春に完成された。初演を受け持ったのはビーチャムが「この才能ある女性」と呼んだベアトリスであった。ディーリアスの亡骸が彼の遺志によりイングランドの田舎にある教会の庭に再度埋葬された際、選ばれた村はサリー、オクステッド(英語版)にあるハリスンの家に近いリンプスフィールド(英語版)であった。礼拝ではビーチャムが式辞を述べ、礼拝後にはベアトリスが演奏を披露した。 ハリスンは1921年にヘレフォードで開催されたスリー・クワイアズ・フェスティバルにおいて、エルガーのチェロ協奏曲を初めてロンドン以外の都市における音楽祭で演奏した。1924年までに彼女はヨーロッパやアメリカを演奏旅行で巡り、1925年11月に再登場したロイヤル・フィルハーモニックで行われたオール・エルガー・コンサートでは、作曲者のバトンの下でチェロ協奏曲を演奏した。エルガーは、ハリスンが彼と共にこの曲の縮約版を非電気録音するにあたって曲を研究した後は、自分が指揮をする場合はソリストは常に彼女でなければならないと主張していた。1、2年後、電気録音の登場によってレコードの技術的性能が向上すると、ハリスンはエルガーが指揮するこの作品の「公式」HMV録音でソリストに選出された。 1929年のハロゲート音楽祭では、ハリスンはクィルターと仲間からなるフランクフルト・グループが関係する楽曲の演奏会での協賛者となり、1933年にはクィルターが自作の『L'Amour de moy』を彼女の放送のために再編曲した。
※この「ディーリアス、エルガーとの関わり」の解説は、「ベアトリス・ハリスン」の解説の一部です。
「ディーリアス、エルガーとの関わり」を含む「ベアトリス・ハリスン」の記事については、「ベアトリス・ハリスン」の概要を参照ください。
- ディーリアス、エルガーとの関わりのページへのリンク