ティレル / ザウバー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 02:10 UTC 版)
「ハーベイ・ポスルスウェイト」の記事における「ティレル / ザウバー」の解説
ポスルスウェイトが在籍した4年間、ティレルは中堅チームながらも時折上位を脅かす活躍をみせた。1989年には前輪にモノショックサスペンションを持つ018を開発。1990年の開幕戦アメリカGPでは、ジャン・アレジの乗る018がアイルトン・セナの駆るマクラーレン・MP4/5Bと優勝争いを繰り広げた。続く019では、空力設計者のジャン・クロード・ミジョーと共にハイノーズとアンヘドラルウイングを導入し、以後のF1マシンのエアロダイナミクスの主流を産み出した。 彼はこの時期にマイク・ガスコインを起用して自らのアシスタントに据えた。また、ティレルでのアレジの好走の影にはチームメイトの中嶋悟のセッティング能力が大きく寄与していると指摘し、中嶋の貢献度を評価していた。 1991年、ポスルスウェイトは1993年からのF1参戦を計画していたザウバーとテクニカル・ディレクターとして契約した。ガスコインを後任として自身はスイスに転居し、ザウバーの最初のマシンとなるC12を設計した。彼はF1参戦を待たずザウバーを離れたが、F1デビューシーズンとなる1993年にC12は目覚しい成果を示した。 1992年後半からフェラーリに復帰したポスルスウェイトは、駄作と評されたダブルデッキのF92Aを改良し、翌93年にはアクティブサスペンションを搭載するF93Aを製作。フェラーリを徐々に表彰台圏内へと戻す実績を残した。 ポスルスウェイトはF93Aのデザインを終えるとティレルに舞い戻り、再びミジョー、ガスコインらと組むこととなった。1994年にはヤマハエンジンを搭載する022が快走し、ポスルスウェイトは中嶋に続くチーム2人目の日本人ドライバーとなった片山右京の良きアドバイザーになった。 その後のシーズンはチームの財政難で苦戦が続いたが、023のハイドロリンク・サスペンション(1995年)や025のXウイング(1997年)などで技術的独創性をみせた。 1998年のシーズン前にティレルはB・A・Rに売却され、開発もレイナードが担当することに決まったため、ポスルスウェイトはこの年限りでチームを離れた。
※この「ティレル / ザウバー」の解説は、「ハーベイ・ポスルスウェイト」の解説の一部です。
「ティレル / ザウバー」を含む「ハーベイ・ポスルスウェイト」の記事については、「ハーベイ・ポスルスウェイト」の概要を参照ください。
- ティレル / ザウバーのページへのリンク