チャーノ秘密日記
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「エッダ・ムッソリーニ」の記事における「チャーノ秘密日記」の解説
エッダは取引材料としてチャーノの秘密日記14冊を所持していた。この日記には1937年8月23日から1943年までの機密情報が多く記述されており、ドイツ側としても公表を恐れていた。SD長官エルンスト・カルテンブルンナーは取引に応じるとして、日記の一部を要求した。エッダは重要ではない会議記録分6冊をドイツ側に渡し、コピーさせた。カルテンブルンナーはエッダとの取引を実行するため、チャーノの脱獄計画『伯爵』をたて、ヒトラーに計画実行の許可を求めた。『伯爵』はスカルツィ監獄を占領し、チャーノをヴェローナ郊外で解放、そしてチャーノがトルコに到着した後に日記を渡すという内容であった。しかしヒトラーは「ムッソリーニの問題」であるとしてドイツが介入するべきではないとして、作戦を却下した。しかしエッダに計画中止の連絡はされなかった。 1月7日午後8時、『伯爵』の実行予定日時にエッダは日記を携えて夫の解放地点に向かった。エッダが乗っていた自動車は途中でパンクしたため、通りがかった農夫が乗っていた自転車のハンドルの上に座って解放地点に向かった。しかし約束の時間になっても誰も訪れず、エッダは『伯爵』が実行されなかったことを知った。エッダはなおも夫の解放を諦めなかったが、エッダに同情したドイツの連絡員の女性に逮捕が必至であることを告げられると、スイスに亡命することを決めた。
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