チャーチ (靴)
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チャーチ (英: Church's)はイギリスの靴の老舗ブランドである。チャーチの正式なブランド名はチャーチーズであるが日本ではチャーチで通っている。
歴史
1873年、トーマス・チャーチがノーサンプトンで創業する[1]。1930年代にはニューヨークに海外店舗を出店するなど、比較的早くから世界市場に事業を展開していた。1960年代に1886年創業の靴メーカーであるチーニー(Cheaney)を買収する[2]。
チャーチの創業家は2009年にプラダよりチャーチのセカンドブランドとして展開していたチーニーの製造部門を買収し、チーニーブランドで「旧チャーチ(オールド・チャーチ)」時代の木型を再現したモデルを製作している。
特徴
英国の特に老舗の紳士靴ブランドは「英国王室御用達(ロイヤルワラント)」の称号を授かるところも多いが、チャーチは称号を申請していない。
コストパフォーマンスが優れていたため「英国の良心」とも言われていたが、近年はユーロ高・原油価格高、原皮の供給源の減少等により、値段が高騰している。
独自のガラス加工を施したアッパー(甲革)素材「ブックバインダー」を用いた定番モデル(ストレートチップ:Consul、バルモラルフルブローグ(内羽ウイングチップ):Chetwynd、バルモラルセミブローグ(内羽メダリオンキャップトゥ):Diplomat)は、チャーチのフラッグシップ的人気を誇る。
ラスト(木型)
同族経営だったチャーチがプラダ買収後に大きく変わったのがラスト(木型)である。ファッション性を意識したスタイリッシュなラストが開発・市場に投入された上、モデル名を変えるなどして英国靴イメージからの脱却刷新を図った。買収前のモデルは「旧チャーチ(オールド・チャーチ)」の愛称で呼ばれる。
ただ近年は、定番的なモデルに関してはラストやモデル名を旧チャーチ時代の名称に戻している。
ファクトリーロゴ
チャーチの紳士靴は、中敷に押し彫りで刻まれているファクトリーロゴの都市名で製靴年代を判断でき、年代の新しい方から順に新生/現行チャーチ、新生チャーチ、旧(オールド)チャーチ、旧々(オールド・オールド)チャーチ…と称される。
- 都市名:ロンドン、パリ、ニューヨーク、ミラノ、東京(5都市)…新生/現行チャーチ (2014年~)
- 都市名:ロンドン、パリ、ニューヨーク、ミラノ(4都市)…新生チャーチ (プラダによる買収後~2013年)
- 都市名:ロンドン、パリ、ニューヨーク(3都市)…旧チャーチ
- 都市名:ロンドン、パリ(2都市)またはロンドンのみ(1都市)…旧々チャーチ
日本市場
日本での展開は1965年、大塚製靴が輸入販売元となっていたが、プラダ買収前後に手放し、2008年以降は渡辺産業がディーラーとなっている。全国デパートのシューズフロアや各種セレクトショップに卸しているほか、自社店舗として運営しているブリティッシュメイドでも取り扱っている。
2013年12月に日本国内初の旗艦店としてチャーチ表参道店がオープンした[3]。こちらはプラダグループの事業であり、同社が取扱商品の買い付け、輸入などを行う。
脚注
参考文献
- 山田純貴『靴を読む 本格靴をめぐる36のトリビア』世界文化社、2012年10月15日。ISBN 978-4418122417。
外部リンク
「チャーチ (靴)」の例文・使い方・用例・文例
- ウィンストン・チャーチルの直系の子孫
- チャーチル政権
- 年に1度のチャーチバザーが今週日曜日に開かれます。
- チャーチストにとって不規則な市場変動を分析することは極めて難しい。
- チャーチルは立派な政治家だった。
- チャーチルは偉大な政治家であるばかりではなく、偉大な文筆家でもあった。
- サー・ウィンストン・チャーチルは偉大な政治家であっただけでなく、偉大な作家でもあった。
- エイミー・チャーチが書いた小説はみな面白い。
- チャーチルは国連の生みの親の一人だ.
- チャーチルは卓越した政治家であるとともにまた優れた文人でもあった.
- ヨーロッパの陰謀による邪悪な計画に取りつかれた利己的で腹黒い国 −W.チャーチル
- 戦争は、あらゆる言葉を超える恐ろしい言葉である−ウィンストン・チャーチル
- シンシアは容赦しなかった;彼女は彼を認めようとしない−W・チャーチル
- ルーズベルトとチャーチルによる画期的な決定
- ウィンストン・チャーチルの公開された像を拍手喝采する
- ウィンストン・チャーチルの、彼に関する、あるいは彼を連想させる
- 枢軸の弱点−ウィンストン・チャーチル
- 1945年夏にポツダムで開かれた会議で、ルーズベルト、スターリン、チャーチルが第二次世界大戦終了後のドイツとポーランドの統治に関する計画を起草した
- ルーズベルト、スターリン、およびチャーチルが第二次世界大戦の最終段階を計画して、ヨーロッパの地域分割に同意した、1945年2月にヤルタで行われた会議
- 融和策信奉者というものは、ワニに餌を与え、彼を食べるのを最後に回してもらおうとする人のようなものだ。−ウィンストン・チャーチル
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