ダラーウィーシュ国の始まり
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「サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン」の記事における「ダラーウィーシュ国の始まり」の解説
詳細は「w:Dervish State」を参照 ムハンマドは演説や詩の中で、キリスト教徒がイスラーム教文化を破壊し、ソマリ族の子供たちをキリスト教化しているとして批判した。また、キリスト教国のエチオピアとイギリスの同盟はソマリアにとって脅威だと述べ、イスラームの危機をキリスト教徒の侵略者から守るのが最優先事項である、これはジハードであり、問題はソマリ族が一致団結していないことであり、共に戦わないのは不信心者だ、と論じた。ムハンマドはブルコを拠点にイギリスからの独立と国内統一を表明し、トルコやスーダンから武器を手に入れ、ソマリア各地の賛同者をダラーウィーシュ国の役人に任じた。ムハンマドは軍組織も整備し、イスラームの修行僧ダルヴィーシュに倣って清貧を重視し、自らの国もダラーウィーシュ(Daraawiish)と名付けた。その性格はサーリヒーヤ団の組織を基礎とした厳正な階級制中央集権国家だった。 ムハンマドはキリスト教徒を海に追い落とすことを宣言し、まずは自分らの住む地域に駐留しているイギリス兵に対し、ライフル20丁で武装した1500人の兵で攻撃した。さらにソマリア中のソマリ族に使者を送って参加を呼びかけ、イエメンにも使者を送って協力を要請した。 1900年、エチオピアから派遣された一団は、ムハンマドを生死問わず逮捕するよう命を受け、その一環としてオガデン族のマハメド・スベール (Maxamed-Subeer) からラクダ多数を略奪した。スベールから救援の要請を受けたムハンマドは3月4日、エチオピアの一団をジジガ (Jijiga) (現エチオピア国内)で攻撃し、略奪されたラクダ全てを奪い返した。この戦いの勝利はムハンマドに自信を与え、周囲の評判も上がった。6月になると、ムハンマドはイギリスと協力関係にあったソマリ族イサック支族の一派を襲撃し、ラクダ約2000頭を略奪した。これらの戦いの勝利でムハンマドはオガデン族の間での評判が高まった。ムハンマドはオガデン族の有力な族長の娘と結婚し、さらに妹トーヒャー・シャイハ・アドビルをオガデン族マハメド・スベール族 (Maxamed-Subeer) の有力者アブディ・モハメド・ワーレ(Abdi Mohammed Waale)に嫁がせた。 ところが、ムハンマドの独裁的なやり方に不満を持つマハメド・スベールの族長フッセン・ヒルシ・ダラ・イルジェッハ(Hussen Hirsi Dala Iljech')がムハンマドらを襲い、ダラーウィーシュ国の首相であり友人のアウ・アッバス(Aw 'Abbas)が殺害され、ムハンマドは逃亡した。数週間後、マハメド・スベール族は和解するために使者32人を送ったが、ムハンマドはこれを逮捕して全員処刑した。これに驚いたマハメド・スベール族がエチオピアの援助を要請したため、ムハンマドらは根拠地をイギリス領ソマリランド東部のヌガール (Nugaal) に移した。
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