ダラーウィーシュ運動
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1900年前後、ワダマゴ周辺はイギリス領ソマリランドとして、イギリスから強い干渉を受けていた。これに反発していた一部のソマリ人達が反乱を起こし、サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンを指導者として、「ダラーウィーシュ国」を建国した。ワダマゴもダラーウィーシュ国の拠点の一つとなった。 イギリス軍は鎮圧を試みたが当初は失敗した。そこで1902年、イギリスはインド軍中佐のエリック・ジョン・イーグルス・スウェイン(英語版)を遠征隊指揮官に任命した。5月26日、スウェイン率いる主力部隊はブラオの拠点から進軍し、5月28日にワダマゴに到着した。その他のイギリス軍もワダマゴに集結して、6月1日に進軍した。 1909年10月26日には、ワダマゴに駐留していたヘンリー・アレキサンダー・ウォーカー(英語版)が率いるイギリス軍王立アフリカ小銃隊(英語版)の第1大隊と第8大隊が、バドウェイン(英語版)に向けて進軍している。 この戦いは1920年に、イギリス軍による無差別爆撃と、反乱地区での天然痘の流行と、反乱指導者サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサンの病死により終結した。
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