二人のスルタン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ハバル・ユニス・スルタン国」の記事における「二人のスルタン時代」の解説
スルタンだったヘルシ・アマンの死後、バハ・デリア分家とバハ・マカヒル分家がスグレ朝のスルタン位を争い、これはハバル・ユニス支族を二分した。バハ・デリア分家はグレド・ハッジに率いられ、スルタン、デリア・スグレの生き残りの息子、アワド・デリアを戴き、バハ・マカヒルはヘルシ・アマンの甥で若いムッラーでもあるヌール・アフメド・アマン を戴いた。 ヌールは当初、不安がり、スルタンになるよりもムッラーとしての生活を好んだ。1884年に設立された英領ソマリランド保護領によりハバル・ユニスが水を差されるということはなく、保護領は大部分が未だ首都であるベルベラと海岸部に寄っていた 二人のスルタンは長らく戦争に明け暮れて、スルタン国の領域は分断された。アワドは自身が選んだ首都ブラオからスルタン国を支配し、ヌールはトゥーヨ平原とオードウェイネから支配した 1884年にブラオのアワドのスルタン国を訪れたフランク・リンスリー・ジェームスは二人のスルタンが対立する状況を目撃している。フランクはハバル・ユニス地域の政治状況や、対立する二つのレル・スグレ分家やその同盟者であるハバル・ユニスの支族らの間で頻発する襲撃について記述している。 偉大なハバル・ゲルハッジ支族は二つの対立する派閥に分かれていたようであり、一方はアワドに、もう一方はアワドの従兄弟、ヌールに忠誠を誓っていたようだ。この二つのスルタンの間でハバル・ユニスは均等に分割されて、境界では戦争やその噂、家畜への襲撃、殺人の試みが絶えない場となった ハバル・ゲルハッジは以前は一人のスルタンに支配され、非常に強力であり、オガデンに頻繁に襲撃を行っていたが、スルタンの死後アワドとヌールの間で国は分割された アワドはオガデンでリール・アリーに殺された。 これによりヌールがブラオで支配を確立し、ハバル・ユニス全体を支配することが可能となった。しかし、バハ・デリアはそれでも敗北を認めず、ヌールの死後はアワドの甥、マダル・ヘルシを後継者として選んだ ヌールはハバル・ユニスの「ヘール」 を招集し、ヘルシ・アマンの死後続く無益な内戦を続けるより、請求者のマダル・ヘルシとの紛争を解決するためくじ引きをすることに決めた。ヌールはくじに勝ち、マダル・ヘルシに補償として100頭のラクダを与え、無条件でハバル・ユニスのスルタンであることを宣言した。 一人のスルタン、ヌールの下でのハバル・ユニスの統一は数年後の1899年にダラーウィーシュ運動が結成されるまで続いた。
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