二人のファンニウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 18:38 UTC 版)
「ガイウス・ファンニウス」の記事における「二人のファンニウス」の解説
すでに古代(紀元前1世紀)においても、ガイウス・ファンニウスという政治家が二人いたと認識されていた。紀元前46年に、キケロは『ブルトゥス』の中で、ガイウスの息子であるファンニウスは護民官、執政官でグラックスの政敵だったとし、一方でマルクスの子ファンニウスはガイウス・ラエリウス・サピエンスの義理の息子で歴史家であり、「態度も話し方ももう一人のファンニウスよりも素朴な人だった」と書いている。また、後者は前者が護民官を務めた13年後の紀元前129年にようやくクアエストル(財務官)に就任する年齢であったとも述べている。 以下に示すキケロからティトゥス・ポンポニウス・アッティクスへの手紙は、明確ではないが紀元前45年に書かれたもののようだ。 私はブルトゥスが引用したファンニウスからの抜粋に困惑している。その抜粋を元に、ファンニウスはガイウス・ラエリウス・サピエンスの義理の息子とした。しかし、君(アッティクス)は私の間違いを指摘した。今ブルトゥスは君に異議を唱えている。私が『ブルトゥス』に書いたことにはクィントゥス・ホルテンシウスもお墨付きを与えている。この問題を修正してくれたまえ。 キケロ『アッティクス宛書簡集』、XII, 5, 3. テオドール・モムゼンは、この手紙の内容から、『ブルトゥス』を書いた後、アッティクスがキケロに歴史家ファンニウスと政治家ファンニウスが同一人物であることを確信させたのではないかと推察した。紀元前44年11月11日付けのキケロの手紙では、護民官ファンニウスをマルクスの息子としている。 一方で、F. ミュンツァーは実際にガイウス・ファンニウスが二人おり、二人の父が兄弟であったと考えている。一人は紀元前161年の執政官ガイウス・ファンニウス・ストラボの子、もう一人はマルクスの子であるが、何れも紀元前187年の護民官ガイウス・ファンニウスが祖父である。ミュンツァーによれば執政官ファンニウスはマルクスの息子でグラックス弟の政敵、歴史家ファンニウスはガイウスの息子であり、グラックス兄と共にカルタゴで戦ったとしている。現代の歴史家は、ファンニウスに関する記録の多くはマルクスの息子である執政官ファンニウスのものと考えている。
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