タルクィニウスプリスクスの戦争とは? わかりやすく解説

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タルクィニウス・プリスクスの戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/12 19:01 UTC 版)

ローマ・サビニ戦争」の記事における「タルクィニウス・プリスクスの戦争」の解説

紀元前6世紀初め第五ローマ王 タルクィニウス・プリスクス治世時に、サビニはローマ攻撃した。タルクィニウスはローマを囲む石の城壁築こうとしたが、サビニ軍は既にアニオ川渡河していた。このため、タルクィニウスは計画変更し野戦打って出たリウィウスによると、最初激突激しいものであったが、どちらも勝利できなかった。 サビニ軍は野営地撤退したが、この間ローマ軍には援軍加わった。タルクィニウスは自軍弱点騎兵エクィテス)の不足にあると考えていたため、騎兵倍増させた。 続いて二度目戦い起こったローマ軍はサビニ軍の退路を断つために、筏に材木積んで火をつけ、それを上流から流して川にかかる燃やした戦闘ではサビニの歩兵ローマ軍押し戦列中央部勝利しそうであった。しかし、ローマ軍騎兵がサビニ歩兵を横撃して蹴散らした。ローマ騎兵追撃と、焼け落ちていたために、多くのサビニ兵が戦場離脱できずに戦死した。また川で溺死した兵も多かった。その武器アニオ川からテヴェレ川通ってローマ達したこのため勝利の報告が届く前にローマ人勝利を確信することができた。 タルクィニウスは勝利をさらに確実なものとすることにした。まず戦利品積み上げて燃やし火の神ウゥルカーヌス捧げた。また捕虜野営地での略奪品ローマ送った続いてサビニ領に侵攻した。サビニは急いで軍を編成したが、再び敗北したその後講和求めたサビニ族都市であったコラティア(en)は降伏しその周辺地域と共にローマとなったリウィウス降伏文書記録している。王の甥であるアルンス・タルクィニウス(en)が守備兵と共にコラティアに残り、タルクィニウスは凱旋式のためにローマ戻った凱旋式記録によると、凱旋式紀元前585年9月13日挙行されている。

※この「タルクィニウス・プリスクスの戦争」の解説は、「ローマ・サビニ戦争」の解説の一部です。
「タルクィニウス・プリスクスの戦争」を含む「ローマ・サビニ戦争」の記事については、「ローマ・サビニ戦争」の概要を参照ください。

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