ソヴィエト民主主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 07:23 UTC 版)
「プロレタリア革命と背教者カウツキー」の記事における「ソヴィエト民主主義」の解説
カウツキーはボリシェヴィキがソヴィエトを一階級の戦闘組織から国家組織に変えたことを非難する。これは、ロシア革命においてプロレタリアートは勝利してはならない、というマルトフの見解を無批判に全ヨーロッパ的地盤に移したものである。 憲法制定議会の解散に関し、カウツキーは「憲法制定議会についてのテーゼ」から「ソヴェト共和国は(憲法制定議会をいただく普通のブルジョア共和国にくらべて)いっそう高度な型の民主主義制度の形態である」という第三のテーゼを引用し、「ただ残念なことは、憲法制定義会で少数派になったのちにはじめて、こういう結論に達したことである。それ以前には、レーニンよりも猛烈に憲法制定議会を要求していたものはだれもなかった」と評している。しかし、第二のテーゼには「憲法制定議会を召集せよという要求をかかげながら、革命的社会民主主義派は、1917年の革命のそもそものはじめから、ソヴェト共和国が、憲法制定議会をそなえた普通のブルジョア共和国よりも高度な形態の民主主義であることをなんども強調してきた」と書かれている。第二のテーゼを無視することにより、カウツキーは憲法制定議会とソヴィエトの階級的内容を分析する課題を避けてしまった。 ソヴェトは、ーー地方の、すなわち郡や都市や県や州の多くの大会はのぞいてーー、1917年2月28日(旧暦)から10月25日までのあいだに、ロシアの住民の圧倒的多数の、すなわち、すべての労働者と兵士の、農民の10分の7ないし8の代表の全ロシア大会を二度召集することに成功した。この機関にブルジョアジーは、多数者を代表する機関の召集には一度も成功しなかった(プロレタリアートをおこらせた、あのあきらかに偽造した、人を愚弄する「民主主義会議」をのぞけば)。憲法制定議会は、第一回(6月)全ロシア・ソヴェト大会とおなじ大衆の気分を、おなじ政治的グループ分けを、反映していた。憲法制定議会が召集されるまでに(1918年1月)、第二回ソヴェト大会(1917年10月)と第三回ソヴェト大会(1918年1月)がひらかれた。そのさい、両大会は、大衆が左翼化し、革命化し、メンシェヴィキとエス・エルと手をきってボリシェヴィキのがわにうつったこと、すなわち、小ブルジョア的指導と手をきり、ブルジョアジーとの協調の幻想と手をきって、ブルジョアジーの打倒をめざすプロレタリアの革命的闘争のがわへうつったことを、きわめてあきらかにしめした。したがって、ソヴェトの外面的な歴史だけでさえ、憲法制定議会の解散が不可避的であったこと、議会が反動的であったことをしめしている。
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