ソヴィエト連邦滞在期
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「ホセ・ディアス・ラモス」の記事における「ソヴィエト連邦滞在期」の解説
ディアスは胃がんを発症し体調が悪化したため、1939年にスペインを離脱してソヴィエト連邦へと移動、レニングラードに滞在して現地から指導を続けた。スペイン内戦の終結と第二次世界大戦の開戦後はモスクワに残り、コミンテルン書記局でスペイン・南アメリカ・英領インド担当官として勤務した。また彼はソ連滞在中に自己批判を含んだ随筆を著している。これは大粛清とスターリン個人崇拝のイデオロギー上の必要性から書かれたものであった。 1941年6月に独ソ戦が始まると、ディアスはプーシキンへの移住を余儀なくされた。同年秋にはグルジア・ソヴィエト社会主義共和国のトビリシへと移り住んだが、病状は悪化の一途を辿っていた。彼の死に関する事情はこれまで議論が繰り広げられていたが、専らスターリンの命令により殺害されたとする説が広く信じられていた。とりわけ、1939年にディアスがスペイン共産党へ共和国政府の全権限を付与するよう求めたことは、スターリンの理論と明らかに対立したものであったためであった。 ディアスにまつわるソ連国家保安委員会の文書は、ソヴィエト連邦の崩壊によって機密情報から除外された。公開された文書にはディアスの死をスターリンと関連付けさせるものはなかった。スペイン共産党書記長の座はディアスに代わってドロレス・イバルリが就いた。 2005年にディアスの遺体はセビリャへと改葬され、スペイン共産党により式典が開かれた。
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