ソビエト宮殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 00:41 UTC 版)
ソ連政府は1931年、大会議場「ソビエト宮殿」の建設を発表、予定地にあった救世主ハリストス大聖堂の爆破解体を行った。この宮殿のための建築設計競技にイオファンも参加し、1932年、一等賞となった(一等賞は実際には3つの案が同時受賞したが、最終的にヨシフ・スターリンがイオファン案に一等を与えた)。彼は以後、ソビエト宮殿の計画を何度も書き直し、最終的には高さ415mで頂上にはウラジーミル・レーニンの像が載るという超高層ビルへとなってゆく。ソビエト宮殿設計案は1937年、近代生活における芸術と技術をテーマとしたパリ万国博覧会で金賞を受賞する。このパリ万博のソ連パビリオンもイオファンの設計であり、真向かいにはナチス・ドイツの建築家・アルベルト・シュペーア設計のドイツ館が建ち威容を競い合っている。 しかしソビエト宮殿の建設は進まず、大聖堂跡地の泥の海との格闘に終始した。1941年6月、基礎が完成し、鉄骨が50メートルまで組みあがったところで建設は独ソ戦のため中止された。鉄骨は全て武器製造の原料として撤去されてしまった。この後、ソビエト宮殿建設は中断したままスターリンの死を迎え二度と再開されることはなく、1958年には完成した基礎を利用した屋外プール、モスクワ・スイミングプールが建てられた。プールはソビエト連邦の崩壊後、1994年には大聖堂再建のため閉鎖されている。 その他、イオファンの作品にはニューヨーク万博(1939年)のソ連パビリオンなどがある。1947年のモスクワ大学の設計競技にも彼は参加したが、レフ・ルドネフ(Lev Rudnev、ワルシャワの文化科学宮殿など、多くのスターリン・ゴシックの超高層ビルを設計した建築家)に勝利をさらわれた。
※この「ソビエト宮殿」の解説は、「ボリス・イオファン」の解説の一部です。
「ソビエト宮殿」を含む「ボリス・イオファン」の記事については、「ボリス・イオファン」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書からソビエト宮殿を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- ソビエト宮殿のページへのリンク