イオファンらの案の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:20 UTC 版)
「ソビエト宮殿」の記事における「イオファンらの案の変遷」の解説
イオファンの案はコンペ初期、古典主義的な長方形の中庭の両端に二つの構成主義的な大会堂が建ち、中庭中央に腕を振る労働者の像が乗った古典主義的な巨塔が立っていた。この案は、コンペ途中でウラジミール・ゲリフレイフ(ロシア語版)やウラジーミル・シューコら新古典主義建築家が合流して練りこまれ、大きく姿を変える。1934年に公開された案では、二つの大会堂はケーキのように積み重なってしまい、建物頂上に手を上へ掲げた高さ100mの巨大なウラジーミル・レーニン像が立つ姿へと変わっていた。1937年にソ連を訪れたフランク・ロイド・ライトはこの構造を「現代の聖ゲオルギウス」になる試みと称賛している。 その下の超高層ビルは、宮殿に入る大階段のあるジッグラトのような基盤から列柱のある四角い階段状の構造体が立ち上がり、その上に柱廊に囲まれた高く太い円筒形の層が積み重なって、頂上に近づくにつれセットバックして細くなってゆく構造であり、まるでピーテル・ブリューゲルの描いたバベルの塔を思い起こさせる外観であった。 像の頂上までの高さの合計は415mを計画しており、エンパイア・ステート・ビルディングより高い、当時の世界最高の建築物となる予定であった。宮殿には大きさの異なる大会堂が二つ(主となる大会堂は座席数が21,000人分で、天井高は100m、直径160mという途方もない規模だった。小さい会堂も6,000人分の座席をそなえていた)と、いくつかの博物館・美術館が入居し、低層階と地下は自動車などからの乗降のための場所、倉庫、機械設備室が配置されていた。案は以後も手直しされ、高さは小さめに、デザインもアールデコ調を取り入れるなど変化している。宮殿は天に向かって伸びる巨大な梯子のような印象を与えるよう意図されていた。
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