ズバーラジュ城の包囲・ズボーリウの戦い
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「フメリニツキーの乱」の記事における「ズバーラジュ城の包囲・ズボーリウの戦い」の解説
詳細は「ズバーラジュ城の包囲」および「ズボーリウの戦い」を参照 1649年1月2日、フメリニツキーはコサックの長官たちに伴われてキエフへ凱旋した。彼を迎えたのはキエフ府主教スィリヴェーストル・コーシウとエルサレム総主教パイーシイをはじめとする正教会の主だった聖職者、キエフ・アカデミーの教員と学生、ならびに夥しい群集であった。聖職者の筋書きに沿ってフメリニツキーは現存したキエフ・ルーシ時代の最大の建造物である黄金の門を通り、昔のキエフ大公、また「ポーランド人の奴隷からルーシの民を救ったモーゼス」のように歓迎された。エルサレム総主教は、フメリニツキーの現在と未来の罪を許し、即婚であった彼の恋人と結婚させ、「ポーランド人との戦い」について祝福した。 1649年 フメリニツキーのキエフへの入城 フメリニツキーとの和平交渉 ズバーラジュ城の遺構 1649年2月、去年末にザモシチで始まった和平交渉に引き続いて、ポーランド・リトアニア共和国の政府より和平条約を結ぶための使節団がキエフに到着した。しかし、そこでフメリニツキーは、ザモシチでのコサックの棟梁としてコサックの自治権と軍人権の公認を求めたのではなく、「神様の御加護とサーベルで勝ち取ったルーシ」の君主という立場から、ウクライナ人(ルーシ人)が住む地域をポーランドの支配から解放するようにと使者に請求したのであった。使者は戸惑いながらも為す術もなかったので、首都へ帰った。 1649年3月にポーランド・リトアニア共和国側のヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイが率いる1万5千人の貴族軍は休戦協定を破り、コサックの支配地の西境で軍事活動を再開した。これに対してフメリニツキーは、動員の触れを出し、30連隊からなる10万人の新たな軍勢を集めた。5月中旬に、イスリャム3世ゲライ(クリミア・タタール語版)が率いるクリミア・ハン国の4万人のタタール軍はコサックの援軍として参陣した。6月末にコサック・タタール同盟軍は、貴族軍を攻めてズバーラジュ城へ撤退させたが、城を攻め取ることが出来なかったため、7月20日にこれを包囲して兵糧攻めをすることにした。その包囲を知ったポーランドの国王は、直ちに3万人の軍勢を呼び集めて8月始めに貴族軍を救うために出陣したが、8月15日ズボーリウ町の周辺でコサックとタタールの予期せぬ突撃に遭い、7千人の死者を出して本陣に立て籠もった。
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