スーパータスク論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 04:16 UTC 版)
「ゼノンのパラドックス」の記事における「スーパータスク論」の解説
級数による「解決」或いはラッセルの言う無限数の導入によるという数学的な捉え方に対して、いくつかの疑問が提出される。マックス・ブラック(英語版)等は、スーパータスク・無限作業の問題を提出する。トムソンのランプなど、無限の作業が完了したとすると説明の付かない事態が出来する。二分法に於いて、前進型で目的点に到着するケースにあたる無限数列Z={0,1/2,3/4,7/8,...}は、上限が1である。Zの各数に順にオンオフを対応させるとすると、上限1において到着するというならば、その時それはオンなのかオフなのか。どちらでもあり得ない、とジェームズ・F・トムソン(英語版)は言う。この例が、スーパータスクの自己矛盾性を証明しているか否かは、見解が分かれる。 ポール・ベナセラフは、スーパータスク自己矛盾論者を、現代のエレア派と名付ける。「無限作業の完了」が、何を指しているかというところに難点があるとする。無限数列Zの各項に規定された関係が、上限においても規定されるとは論理的には言えない。従って、自己矛盾であるとの証明はなされていないと、彼はスーパータスク論を批判する。 野矢茂樹は、「時間・空間はそれ自身が語られる対象ではなく、何ごとかを語り出す形式にほかならない。」と言い、「点的な語り方では運動は語れない」とする一方、この無限作業の不可能性から次のように結論する。ゼノンが要求するのは、運動の記述として不可能なものであり、運動そのものは別様の表現が可能なのである。ゼノンの議論に従うなら、つまり無限分割の語りに従うならば、自然数を数え尽くすか、あるいは追い抜けないことになるかのどちらか、と見えるのは、その語り方の欠陥であるに過ぎない。「それはいささかも運動の不可能性を証明しはしないのである。」「運動と運動の語りを区別する観点」から、運動に対するゼノン式の記述の不可能性が示されたことを以て「アキレスと亀」はケリが付いた、と。青山拓央は、しかし、野矢やライルは追いつくケースしか見ていない。言わば論点先取の議論である、と評する。
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