ジョージと競馬の馴れ初め
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「ジョージ4世と競馬」の記事における「ジョージと競馬の馴れ初め」の解説
1785年の肖像。 叔父のカンバーランド公(1765年頃) 1784年のレーシングカレンダー。巻頭の会員名簿の筆頭に「王太子殿下(HRH Prince of Wales)」の名がある。2番めはカンバーランド公。 王太子時代のジョージに酒と女と賭け事遊びを教えたのは叔父のカンバーランド公(1745-1790)だったと伝えられている。 カンバーランド公はジョージ3世からみると弟にあたる。しかし、カンバーランド公はアン・ホートンとの不適切な結婚など身持ちが悪く、王族の面汚しとみなされていた。カンバーランド公は競馬にうちこみ、1780年にダービーが創設されると、たびたび持ち馬を出走させた。カンバーランド公は子供時代のジョージを連れ出して競馬に連れていき、いろいろな遊びを教えた。質実な態度から「農夫ジョージ」と呼ばれた父ジョージ3世と反対に、ジョージは遊び呆けるようになった。 ジョージは、1783年にジョッキークラブへの加入が認められる21歳になると、すぐに会員となって競馬を始めた。ジョッキークラブ会長のバンベリー準男爵(Sir Charles Bunbury, 6th Baronet)は自ら、若いジョージに競馬の手ほどきをしたという。ジョージは欲しい馬がいれば金に糸目はつけずにいくらでも注ぎ込んだ。そんなジョージをせっせと歓待し、しきりに馬の購入を勧めたのは馬商リチャード・タタソールだった。ジョージの所有馬はすぐに20頭を超え、経費は年に3万ポンドを要したと伝えられている。 1786年にはジョージが競馬に登録した馬は24頭を数え、2頭をダービーに出場させるまでになった。このときのジョージの馬の成績は、Braganza号が4着、Little Henry号が着外だった。 こうした浪費によってジョージはこの年に早くも破綻に直面した。ジョージは持ち馬をあらかた手放す羽目になり、ニューマーケットの厩舎も解散せざるをえないところまで追い詰められた。一時期は手元には1頭の馬しかいなくなったという。 まもなく1787年に議会から与えられた16万1000ポンドの資金で、ジョージは競馬を再開することができた。議会の承認を得られたのは、当時の首相小ピットが「ガチガチの馬キチ(decidedly horsey)」だったからだという。ジョージはすぐに再び競走馬を買い集め、持ち馬は39頭に達した。この数は、当時を代表する大馬主であるグローヴナー伯爵(Richard Grosvenor, 1st Earl Grosvenor)の32頭、ベドフォード公爵(Francis Russell, 5th Duke of Bedford)の30頭を上回る数だった。 ジョージはそのための厩舎の拡張に追われた。1791年の『タイムズ』紙は「王太子は王国で一番の厩舎を持っている。そのくせ全然レースに勝っていない」と記事にした。実際にはジョージは既に、1788年にサートーマス号をダービーに出走させて勝っており、王族として初めてダービー優勝を果たしている。しかしその頃のダービーの賞金はまだそれほど高くなく、ジョージが勝った年の優勝賞金は971ポンド15シリングに過ぎなかった。これに対し、サートーマス号を購入した際にジョージが支払った額は2000ギニー(2100ポンド)だった。
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