ジュリオの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 23:19 UTC 版)
ジョヴァンニの孫、ティートの息子ジュリオ・リコルディ(Giulio Ricordi、1840年 - 1912年)は、リコルディ社中興の祖と称される人物。父ティートから、単なる出版業者の後継者としてでなく作曲を含む文化人としての高い教育を受けたジュリオは、単なる受身での音楽出版でなく、積極的に作曲家と台本作家を引き合わせ、アイディアを交換し、より芸術性も興行性も高いオペラ作品を生み出そうと務めた。処女作オペラ『メフィストーフェレ』の大失敗で意気消沈していたボーイトの文才を愛し、カタラーニやポンキエッリに台本を提供するよう誘導したのはジュリオであり、『アイーダ』以降事実上休筆状態だったヴェルディをそのボーイトとの共同作業に駆り立て、大傑作『オテロ』および『ファルスタッフ』に結実させたのも、またジュリオの功績によるところが大きい。 1883年、リコルディ社の新興ライバル、ミラノのソンゾーニョ社が一幕物のオペラ・コンクールを開始する。1889年の第2回コンクールで優勝作品となったマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』は多くの若手作曲家を触発し、レオンカヴァッロ『道化師』など多くの類似作品を生む。ヴェリズモ・オペラ時代の到来である。マスカーニとレオンカヴァッロ以外にも、ソンゾーニョ社はジョルダーノおよびチレアを擁し、ヴェリズモ・ブームの一大牙城を築く。もはや新たな作品を産み出し得ないヴェルディに替わって、新たなオペラ作曲家をリコルディ社も必要としていた。 それが、ジャコモ・プッチーニである。1883年の第1回ソンゾーニョ・コンクールに『妖精ヴィッリ』で落選していたプッチーニは、ジュリオにその才を認められる。1889年の『エドガール』も失敗作だったが、ジュリオのプッチーニに賭ける信念は揺らがず、『マノン・レスコー』(1893年)以降の成功によって、リコルディ社はソンゾーニョ社に対抗しうる資産を確保したのだった。ジュリオがプッチーニ引き立てのために弄した手段は尋常以上のものであった。例えば『トスカ』のオペラ化権は凡庸な作曲家アルベルト・フランケッティの手にあったが、ジュリオは台本作家ルイージ・イッリカと共謀して、『トスカ』がいかにオペラに「不向きな」題材であるか、をフランケッティに説いて、権利買戻しに成功、プッチーニの傑作を誕生させている。当のプッチーニもジュリオとリコルディ社に絶大な信頼を寄せており、オペレッタへの進出を狙った『つばめ』以外の全作品がリコルディ社からの出版である。
※この「ジュリオの時代」の解説は、「リコルディ」の解説の一部です。
「ジュリオの時代」を含む「リコルディ」の記事については、「リコルディ」の概要を参照ください。
- ジュリオの時代のページへのリンク