シューニンク中将との争い
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「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の記事における「シューニンク中将との争い」の解説
8月24日、フランス元帥ユミエール公ルイ・デュ・クルヴァンが、連合軍による攻囲(ドイツ語版)を破るべくマインツへ軍団を派遣したという報告が届く。バーフースは6,000名を率いてロレーヌ公シャルル5世指揮下の攻囲軍に増援を送るよう命令を受けた。その部隊は出発し、バーフースも8月30日には後を追おうとしたが、彼より年下でありながら上官であったシューニンク中将との間に争いが発生する。高慢で強欲と言われるシューニンク中将は、しばしば厳しさと軽視をもって部下に接していた。この一件について、バーフースは書面で意見を表明し、次のように書いている。選帝侯から命令を受け、シューニンクの許に赴いて離任を告げたバーフースが 「マインツへ進軍する(中略)と知らせた所、彼はこのように答えた。私が彼にこのような礼儀を果たし、声をかけるのは不思議なことである。なぜなら、マインツへの進軍はとうに私の義務だと考えていたからであると。私は慈悲深き我が主君の命じることを行うのであり、彼(シューニンク)から全く同じ命令を受けたのであれば何も言わなかったであろう、と言った。彼は、もし選帝侯閣下が私に何も命じなかったとしてもマインツへの進軍は私の義務であり、選帝侯閣下がその場に居なくても私の義務が何であるのか、彼が私に教えていたであろうと答えた。別の折、彼がこのように繰り返したので私は答えた。もし選帝侯閣下が居なかったら、私は彼(シューニンク)が私に教えることを聞かなければいけないはずである、と。」 それから宮中顧問官、エーベルハルト・フォン・ダンケルマンが来た。バーフースは彼に別れを告げ、自身の部隊へと向かうべく、すぐに二人の許を離れた。彼が自分の馬に跨る前、シューニンク中将が来て彼を傍に呼び寄せた。 「営門からおよそ百歩の所まで来た時、彼は立ち止まり、私に剣を抜けと言った。私は、ここへ自分を連れて来たのは彼ではないかと答えた。剣はご自身で抜かれよ、そうすれば私がどうするかお分かりになるだろう、と。彼は改めて私に剣を抜くよう求めたが、私がそうすることで彼が何を望んでいるのか、すでに見抜いている、と答えると彼は言った。私には、彼に対して剣を抜く勇気がないと。こう十回ほども繰り返した後、ようやく周囲の者に向かい、侮蔑を込めた表情で『彼(バーフース)など悪魔に攫われてしまえ』と言った。それを受けて私も彼に剣を向ける勇気が湧いたが、彼は再び私の所へ来て、自身の杖を私が左手で支えていた我が杖に打ち合わせた。杖は三歩離れた場所に落ちたが、私はそれを拾い、彼に向かって突き出した。彼もそうした後、私が剣に手をかけた所、彼もまた同じことをした。」 周囲の者は二人をようやくのことで引き離す。選帝侯は両名を一時的に逮捕し、指揮権を剥奪した。そしてこの一事を非常に重く見て、宮中顧問官のエツェヒエル・フォン・シュパンハイム(英語版)やオットー・フォン・シュヴェリーン(ドイツ語版)その他の者に専門的な意見を求めた。その結果、シューニンクは選帝侯の下における勤務から免職される。 ボンの攻囲はこのような突発事件にも拘わらず続けられ、10月2日にはその要塞が占領された。続いてバーフースは、ノイスで冬営に入る。1690年、老齢のデアフリンガー元帥とバーフースは、連合軍と共にディナンを攻囲するブランデンブルク軍の上級指揮権を託された。間もなくデアフリンガーは病気により、軍を去らなければならなかったため、その指揮権はバーフースが単独で担うようになる。そしてニーダーライン地方(英語版)に進み、フルーリュスの戦いの後、ブラバントへ向かう。続いてブランデンブルク軍の各連隊はマース川の東側に移され、バーフースはベルリンに赴いた。
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