シュピーゲルバーグ兄弟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 14:14 UTC 版)
「フロンティアのユダヤ人」の記事における「シュピーゲルバーグ兄弟」の解説
シュピーゲルバーグ兄弟 (Spiegelberg Brothers) は、ソロモン・ジェイコブ・シュピーゲルバーグ (Solomon Jacob, 1824-1898) とリーバイ・シュピーゲルバーグ (Levi, 1830-1906) ら6人の兄弟からなるサンタフェ初のユダヤ系商社。 ソロモンは10人兄弟の長男としてドイツに生まれる。東海岸にわたりサンタフェ・トレイルでサンタフェに到着、見習いとアメリカ軍の調達係をしながら輸送ルートを確保し交易所を設立、次々と故郷ドイツから兄弟を呼び寄せた。最初にリーバイが到着し、1848年にスピーゲルバーグ兄弟が設立され、エリアス(1850)、エマニュエル(1853)、リーマン(1857)、そして最年少のウィリー(1861)が到着した。彼らはアメリカ軍の物資調達商人 (sulter) となり、またアメリカ先住民の交易所を展開、さらに金融業や保険や鉱山業も担い、アメリカ南西部に広がるビジネス帝国を築いた。 彼らはまた先住民の貿易所 (trading post) の運営を管理する権利を委譲された。1868年、ロング・ウォーク・オブ・ナバホと呼ばれる残酷で長い強制移住からナバホの人々が砦に戻った時、リーマンはディファイアンス砦の交易所のライセンスを獲得、またウィリーもウィンゲート砦のライセンスを任された。1860年代初頭からソロモンとリーバイはモンテズマ銅鉱山会社を設立、リーマンは1872年にウィリソン銀鉱山会社の取締役を務めた。南北戦争時には南軍の物資供給をになった。1870年まで、兄弟社は南西部での銀行や保険会社の役割を果たしていた。活動的なフリー・メイソンでもあった。 シュピーゲルバーグ家は聖フランシス大聖堂の建物の資金提供者だった。ウィリーはサンタフェ市長 (1884-1886) を務めた。ウィリーの妻フローラは、サンタフェでの暮らしを生き生きと日記に記し、また街で最初の非宗教的な女子学校を始めた。 2019年、シュピーゲルバーグの6人の兄弟の歴史をたたえる記念碑が剥ぎとられ、JEWS といたずら書きされる事件が起こった。不寛容とユダヤ人差別の高まりの中で、サンタフェでは記録された初の破壊行為であり衝撃を持って受け止められた。
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