シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)
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「ユグノー戦争」の記事における「シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)」の解説
アンジュー公アンリが不在の間、シャルル9世と末弟アランソン公フランソワが諍いを始め、多くのユグノーが保護と支持を求めてアランソン公フランソワ周辺に集うようになった。1574年2月にサン・ジェルマンでクーデター未遂事件が起きたが、申し立てによればその目的はサン・バルテルミの虐殺以降宮廷に捕らえられているナバラ王アンリとコンデ公アンリの救出であった。同時にバス=ノルマンディー、ポワトーそしてローヌ渓谷などでユグノーが蜂起し、戦争を再燃させた。 アンジュー公アンリがポーランド王に即位した3ヶ月後の1574年5月、シャルル9世が死去した。王太后カトリーヌはアンリが帰国するまで摂政に就任すると宣言する。アンリは秘密裏にポーランドを去り、ヴェネツィア経由でフランスに帰国した。帰国した彼はラングドック地方総督モンモランシー=ダンヴィルの裏切り(1574年11月)に直面することになった。不満派(ポリティーク派)のダンヴィルは南フランスのユグノーと結託して王家に背いてしまった。 1575年2月に彼はランスでアンリ3世として即位し、ギーズ家の同族であるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚した。国王は4月には交渉を模索していた 。だが、9月に末弟アランソン公フランソワが宮廷から逃亡して、不満派の頭目になる。更にプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンがシャンパーニュに侵攻したことからも、国王に敵対する連合軍の勢力が圧倒的になる可能性が俄然増してきた。国王は慌ててアランソン公との7カ月の休戦協定を交渉し、ツヴァイブリュッケン公の軍にはライン川東岸に留まることを条件に50万リーブルの支払いを約束したが、いずれも和平を確実にするものではなかった。 1576年の始めにナバラ王アンリとコンデ公アンリがパリからの脱出に成功し、先の改宗を否認してプロテスタントに復帰する。3月、国王はアランソン公フランソワとユグノーの条件を受け入れることを強いられ、「王弟殿下の和議」(paix de Monsieur)と呼ばれるボーリュー勅令を出した。勅令ではパリ城壁内以外の全ての場所でのプロテスタントの公的礼拝が認められ、更にユグノーに安全保障都市が8箇所与えられた。
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