シャルル9世の死と第5次戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シャルル9世の死と第5次戦争の意味・解説 

シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)」の解説

アンジュー公アンリ不在の間、シャルル9世末弟アランソン公フランソワ諍い始め多くユグノー保護支持求めてアランソン公フランソワ周辺集うようになった1574年2月サン・ジェルマンクーデター未遂事件起きたが、申し立てによればその目的サン・バルテルミの虐殺以降宮廷捕らえられているナバラアンリコンデ公アンリ救出であった同時にバス=ノルマンディー、ポワトーそしてローヌ渓谷などでユグノー蜂起し戦争再燃させた。 アンジュー公アンリポーランド王に即位した3ヶ月後の1574年5月シャルル9世死去した王太后カトリーヌアンリ帰国するまで摂政就任する宣言するアンリ秘密裏ポーランド去りヴェネツィア経由フランス帰国した帰国した彼はラングドック地方総督モンモランシーダンヴィルの裏切り(1574年11月)に直面することになった。不満派(ポリティーク派)のダンヴィル南フランスユグノー結託して王家背いてしまった。 1575年2月に彼はランスアンリ3世として即位しギーズ家同族であるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン結婚した国王4月には交渉模索していた 。だが、9月末弟アランソン公フランソワ宮廷から逃亡して、不満派の頭目になる。更にプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンシャンパーニュ侵攻したことからも、国王敵対する連合軍勢力圧倒的になる可能性俄然増してきた。国王慌ててアランソン公との7カ月休戦協定交渉しツヴァイブリュッケン公の軍にはライン川東岸留まることを条件50リーブル支払い約束したが、いずれも和平確実にするものではなかった。 1576年始めナバラアンリコンデ公アンリパリからの脱出成功し先の改宗否認してプロテスタント復帰する3月国王アランソン公フランソワユグノー条件受け入れることを強いられ、「王弟殿下和議」(paix de Monsieur)と呼ばれるボーリュー勅令出した勅令ではパリ城壁以外の全ての場所でのプロテスタント公的礼拝認められ、更にユグノー安全保障都市が8箇所与えられた。

※この「シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)」の解説は、「ユグノー戦争」の解説の一部です。
「シャルル9世の死と第5次戦争(1574年 - 1576年)」を含む「ユグノー戦争」の記事については、「ユグノー戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シャルル9世の死と第5次戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シャルル9世の死と第5次戦争」の関連用語

シャルル9世の死と第5次戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シャルル9世の死と第5次戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのユグノー戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS