シャラマー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 10:23 UTC 版)
シャラマー Shalamar |
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シャラマー(1983年)左から、ハワード・ヒューイット、ジョディ・ワトリー、ジェフリー・ダニエル
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基本情報 | |
出身地 | ![]() |
ジャンル | ディスコ、ファンク、ソウル、ポスト・ディスコ、ブギー |
活動期間 | 1977年 - 1991年、1996年 - 1997年、1999年 - |
レーベル | Soul Train、ソーラー |
公式サイト | shalamar |
メンバー | ハワード・ヒューイット ジェフリー・ダニエル キャロリン・グリフィー |
旧メンバー | ジョディ・ワトリー ゲイリー・マムフォード ジェラルド・ブラウン デリサ・デイヴィス ミッキー・フリー シドニー・ジャスティン |
シャラマー(Shalamar)は、1970年代から1980年代に活動したアメリカのソウル、ディスコ・グループ。元々はアメリカのソウル音楽番組『ソウル・トレイン』のブッキング・エージェントであった、ディック・グリフィーによって生み出されたグループである。
概要
彼らの最初のヒットは1977年にモータウンに影響されてできた「アップタウン・フェスティヴァル」だった。翌1978年には「テイク・ザット・トゥ・ザ・バンク」がソウル・チャートでヒットしたが、その後、ジェラルド・ブラウンが脱退することとなった[1]。グループは、ボーカリスト兼ダンサーのジョディ・ワトリー、ジェフリー・ダニエル、ハワード・ヒューイット(短い期間加入していたジェラルド・ブラウンの後を受けて加入)の3人組にかわった。
シャラマーは1979年に音楽プロデューサーのレオン・シルバーズの目にとまり、グリフィーが管理するソーラー・レコードと契約した。グループにとって最初の大きなヒットとなったのは、1980年の「セカンド・タイム・アラウンド」(R&Bチャート1位、ポップチャート8位)で、ミリオンセラーを達成した。さらに1981年には、ソウル・チャートで「ディス・イズ・フォー・ザ・ラバー・イン・ユー」をヒットさせた。
彼らは、イギリスにおいても数曲のヒットを記録した。「テイク・ザット・トゥ・ザ・バンク」(1978年)「アイ・オウ・ユー・ワン」(1980年)と、1982年の「アイ・キャン・メイク・ユー・フィール・グッド」「ナイト・トゥ・リメンバー」「ゼア・イット・イズ」「フレンズ」がある。曲と同じタイトルのアルバム『フレンズ』はポップ、ディスコ、ソウルというジャンルを越えて1982年にイギリスでヒットした。グループのレコードの売り上げは好調で、ダニエルはBBCの音楽番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』において、マイケル・ジャクソンよりも早くムーンウォークを披露した。
グループは、ワトリーとジェフリー・ダニエルの2人がソーラー・レコードに音楽的な不満を持ったために脱退したことで壁に突き当たる。それでも、1983年に発表したアルバム『ルック』では、「Dead Giveaway」という佳曲を生み出した。同曲は、ソウル・チャートでヒットしている。アルバムがシャラマーをエレクトロ・ファンクへ変化させていた。シャラマーはアメリカで合計3枚のゴールド・アルバムを達成している。「Big Fun」、「Three For Love」(プラチナム達成)と「フレンズ」の3枚である。
1980年代中盤のラインナップは、デリサ・デイヴィス、ミッキー・フリーらに変わった。シャラマーは映画『フットルース』のサウンドトラックからのシングル「Dancing In The Sheets」によってアメリカのポップ・チャートトップ20に入ることになる。1985年には、映画『ビバリーヒルズ・コップ』で使われた曲によってグラミー賞を受賞した。しかし、デリサがソロ活動を始めるためグループを離れ、シドニー・ジャスティンが加入してからはグループは音楽シーンの一線から退いてしまう。
最も成功していた時期に加入していた3人のうちの1人、ジョディ・ワトリーはプリンスと仲間であったアンドレ・シモーンとソロ・アルバムを作り、その中に含まれていたシングル「ルッキング・フォー・ア・ニュー・ラヴ」(1987年)、「フレンズ」(1989年)、「エブリシング」などをヒットさせた。またハワード・ヒューイットは1986年に秀作「アイム・フォー・リアル」をソウル・チャートでヒットさせている。
1996年にジョディ・ワトリーは、ヒューイット、ダニエルと合流しLL・クール・Jを加えてベイビーフェイスのシングル「ディス・イズ・フォー・ザ・ラヴァー・イン・ユー」に参加した。この曲はシャラマーが1980年発表したアルバム『スリー・フォー・ラブ』からのシングルのカバーである。また、ワトリーは1985年のバンド・エイドに参加したアフロアメリカンの歌手の1人となった。
シャラマーは2005年に再結成した。それはイギリスのテレビ番組『Hit Me Baby』のためであった。オリジナル・メンバーであるジェフリー・ダニエル、ハワード・ヒューイットと新しい歌手のキャロリン・グリフィー(シャラマーを見いだしたディック・グリフィーの娘)によるものである。
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- 『アップタウン・フェスティヴァル』 - Uptown Festival (1977年)
- 『ディスコ・ガーデン』 - Disco Gardens (1978年)
- 『ビッグ・ファン』 - Big Fun (1979年)
- 『スリー・フォー・ラブ』 - Three for Love (1980年)
- 『ダンシング・パートナー』 - Go for It (1981年)
- 『フレンズ』 - Friends (1982年)
- 『ルック』 - The Look (1983年)
- 『ハートブレイク』 - Heartbreak (1984年)
- 『サーカムスタンシャル・エビデンス』 - Circumstantial Evidence (1987年)
- 『ウェイク・アップ』 - Wake Up (1990年)
脚注
関連項目
洋書
- Guinness Book of British Hit Singles - 16th Edition - ISBN 0-85112-190-X
- Guinness Book of British Hit Albums - 7th Edition - ISBN 0-85112-619-7
- Guinness Rockopedia - ISBN 0-85112-072-5
外部リンク
シャラマー(釈羅摩)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 07:41 UTC 版)
天竺の大魔物。万能の存在であらゆる魔術を扱い、不老不死の薬である舎利湯を作り出すことができる。身長192センチメートル・体重78キログラム・実年齢は82歳で精神年齢は約25歳。長い耳たぶにイヤリングを装着し、左眉毛を剃り、髪型はアシンメトリーで前頭部が渦巻き状に刈り込まれている。両手の指にはそれぞれ火・水・木・金・土の刺青が施されている。舎利湯と人間を材料に、顔面の皮を繋ぎ合わせたシャツ・血管を寄り合わせて作ったズボン・臼歯のコンチョと歯茎のバックルで作られたベルトを着用している。これらの材料として使用された人間は舎利湯の力で死んでおらず、耳を澄ますと材料となった人間の苦痛の声が聞こえてくる。また、肺の中に雷公(ヘング)・風伯(ウィツィロポチトリ)・義和(トナティウ)という一本足の魔物を飼っており、「シャラマー愛の投げキッス」をすることでこれらの魔物を外に放つ。シャラマーに忠誠を誓った「十大弟子(じゅうだいでし)」を従えている。自身が大魔物であることを自覚しており、常に余裕の態度を崩さない。性格は冷酷かつ残虐で、苦悩する大力を面白い見世物として楽しんでいる。貝州の住人を材料に舎利湯を作成しようとするが、玄奘の「ヤショダラの眼」に興味を持ち、舎利湯作りを中止して魔術・両界五行山法で玄奘の実力を試す。
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