シッキム王国の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/11 01:41 UTC 版)
「パルデン・トンドゥプ・ナムゲル」の記事における「シッキム王国の滅亡」の解説
しかしこの選挙結果は、SNC、SJCなどからの「不正選挙」との反発を招くことになった。SNCやSJCは首都でデモを展開し、さらに農村地域では武装蜂起を行ってこれを占領するなどの挙に出る。パルデン・トンドゥプはこの混乱を収拾できず、ついにインドに秩序回復を要請せざるを得なくなった。インドは介入して騒動を収束させ、同年5月にインド・シッキム関係についての新協定を作成する。内容は、国王を名目のみの存在としてその実権を剥奪し、シッキムのインド属国化を強化するものであった。パルデン・トンドゥプは調印せざるを得なかった。 この新協定に基づいて参事院に代わりシッキム立法議会(英語版)が創設された。1974年の立法議会選挙では、SNCとSJCが合併したシッキム会議派(Sikkim Congress: SC)が一般選挙区30議席のうち29議席を獲得する圧勝となった。新たに首相に就任したSC総裁のカジ・レンドゥプ・ドルジはインドの意を受けて国王権限を大幅に制限する新憲法(1974年シッキム統治法)を制定した。さらにSC政権は民意を背景に、王制廃止とシッキムのインドへの編入を目指して動き始める。パルデン・トンドゥプはそれでもシッキムの独立を維持しようとインドへの抵抗や交渉を続けたが、効果はなかった。 1975年4月9日、インド軍が突如首都ガントクに突入し、王宮親衛隊を武装解除、パルデン・トンドゥプを軟禁下に置いた。このインド軍の侵入に関しては、表向きはデモ隊に王宮軍が発砲した混乱を収束させるためであった。だが、パルデン・トンドゥプが政権奪回を狙って立法議会指導者を暗殺し、首都で騒動を引き起こそうと計画したことがインド政府の激怒を買ったためともされる。 そして、翌10日にシッキム国会において王制廃止とインドへの編入が決議され、14日には同決議につき国民投票を実施、圧倒的多数で賛成された。インドでも4月26日にシッキムをインドに州として組み込む憲法改正を両院が成立させた。5月15日、インド大統領の憲法改正法案への認証によりシッキムはインドに編入され、シッキム王国は完全に滅亡した。
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