THE STREET SLIDERS
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THE STREET SLIDERS(ザ・ストリート・スライダーズ)は、日本のロックバンド。1980年 結成。アマチュア時代はリトル・ストーンズと称されて人気を得る。1983年にEPIC・ソニーからレコード・デビュー。 スライダーズは自らのロックン・ロールにこだわり最後まで貫き通したバンドであり、その人気はファンのみならず多くのアーティストやミュージシャンからも支持を得て日本のロックシーンの絶対的存在となった。2000年に解散。
注釈
- ^ ジェームスの記憶では、初めてのステージは1980年4月19日、地元にあるヤマハ・スタジオの小さなサロン・コンサート。ZUZUが答えた雑誌のインタビュー記事では、福生のエレクトリック・UZUが初めてと語る。インタビュアー大野祥之「ザ・ストリート・スライダーズ 幼児期から現在までの総集編 彼らのバックボーンを探る」『アリーナ37℃』8月号、音楽専科社、1986年
- ^ 演奏は「すれちがい」と「SO HEAVY」の2曲
- ^ 1978年に発足した、ソニー・ミュージックエンタテインメントの新人開発・発掘セクション
- ^ スライダーズには7社から誘いがあったが、EPIC・ソニーを選んだのはスライダーズの音楽の要を理解してくれていたからと当時の村越は語る。インタビュアー梅原裕子「福岡密着取材第二弾」P19、『アリーナ37℃』8月号、音楽専科社、1983年。
- ^ 村越の初めての自作曲は「のら犬にさえなれない」で、デビュー・アルバムとデビュー・シングルのB面にそれぞれ収録されている。デビューからバンド解散に至るまで歌われ続け、スライダーズ初の日本武道館公演、そして解散ライヴでもアンコール最後の演奏曲に選ばれている。「ハリーの行方①」1990年1月インタビュー:佐藤健 p213。『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディ』、株式会社ロッキング・オン、1995年。
- ^ ファースト・アルバムのリリース当日、福生UZUのステージに上がらされて前説を行ったEPICソニー宣伝担当(当時)大崎の言葉:『レコード・ショップへ足を運べば、AからZまで、いっぱいのロックのレコードがあります。あたりまえのことだけどジョン・レノンやストーンズや、ボブ・ディランが並び、日本では、RCサクセションや矢沢永吉が並びます。その中に『SLIDER JOINT』が並びました。まだストリート・スライダーズは点のような存在です。(中略)今は勝ち目がありません。でも、勝たなくてはなりません。日本でロック・バンドが成功するには、たくさんの時間と努力が必要です。死にものぐるいでやって、それでもダメというのが普通です。今日、スライダーズがリングにあがって、ゴングが鳴りました。(中略)スライダーズが大きく成長した日、このスペシャル・ギグを思い出し、語りついでください』『タイクツってやつに、ケリ入れて!』野本健、p71。
- ^ アマチュア時代に作った曲のアレンジをし直したり、歌詞を作り直して入れたものがほとんどで「スライダーズらしさを出し過ぎてファンが離れていくんじゃないか」と周りが心配したが、村越は「それだけやり尽くすと次が見えてくる」と後のインタビューで語っている。梅原祐子「THE STREET SLIDERS 只今驀進中‼︎」P63、『アリーナ37℃』8月号、音楽専科社、1984年。
- ^ 『JAG OUT』から作詞・作曲のクレジットにJOY-POPSを使い始め、アルバムの中で土屋が1曲リード・ボーカルを歌うようになる。ベースの市川はアルバム『SLIDER JOINT』と『SCREW DRIVER』で1曲ずつボーカルをとっている。「Feel So Down」では初めてレゲエのビートを取り入れている。
- ^ 《…当時マイナー気味だったスライダーズを明るく応援する為というのが表向きの理由だがその実、取材などで会う時のメンバーのデカい態度につのったウップンを晴らそうとしたのが正しい理由。入会資格はスライダーズを好きな(または嫌いな)健康で勤労意欲に燃える20以上の男女。但し学生、職の無い方は入会不可能》『THE BACK IN THE STREET 5YEARS STREET SLIDERS』、P167、Street Sliders Organization、POP ROCK COMPANY出版、1988年
- ^ 1stシングルの「Blow the Night」は映画のサウンドトラックのために書かれた曲。その後発売された2ndシングル「カメレオン」や3rdシングル「NEW DANCE」もオリジナルのロング・バージョンであったり、フル・レングスをエディットしたショート・バージョンであった。
- ^ ハリー:「ドーナツ盤は作りたかったんだよね、前から。それなりにロックとして勝負できる曲ができたらってさ。溶け込むためのシングルっていうんじゃなくてさ、これなら勝負できると思うんだよ」、ジェームス:「これならイケるって思った」、ハリー:「“Angel Duster”って曲ができたからシングルを出した。前もって決まっていてその為にやったというのとはまた違う」「Angel Dusterってオレたちにとって新しいことなのね。『夢遊病』終わってから、オリジナルってことに頭が行っててさ。それの第一号って感じなんだよね」『誰もがブッ飛ぶ超強力盤で勝負に出た』インタビュアー:大野祥之、アリーナ37℃臨時増刊 音楽専科社、1986年1月号。
- ^ 《…マイケル・ツィマリングは、ベルリンのハザントン・スタジオのミキサーで、ニナ・ハーゲンやノイバウテンの初期のレコードや、加藤和彦さん、坂本龍一&デヴィッド・シルヴィアン、BOØWYのレコードなんかをやった人で、彼自身がBOØWYを気に入っていたこともあり、スライダーズのレコーディングはBOØWYのツアーの合間にやりましたね。ボクもマイケルも普段はスライダーズのような音楽は聴く機会もないし、まさか一緒に仕事をやるなんて考えてもみなかった》『ザ ・ストリート・スライダーズ:アレンジャー佐久間正英スライダーズについて語る』インタビュアー:大野祥之、アリーナ37℃、音楽専科社、1986年2月号。
- ^ 二人はスライダーズの音源のリミックスと佐久間のシンセサイザーを被せる作業をスタジオでほぼ24時間行っていた。
- ^ アルバム『天使たち』をリリースした1986年頃からスライダーズのライブを観にくる客層にちょっとした変化が見られるようになる。外見的なことを言えば前はいかにもスライダーズっぽいスタイルのファンばかりだったところが、普通の女子高生や坊主頭の少年も入り混じりスライダーズの人気の広がりを見せていた。『THE STREET SLIDERS:1月30日で武道館伝説は終わった』、大桃紀子、アリーナ37℃、音楽専科社、1987年4月号。
- ^ RED WARRIORSはスライダーズの登場前に30分ほど演奏したが、彼らが出演することはファンに知らされていなかった。開演時刻と同時にステージに上がってきたメンバー達を見て興奮したファンがステージに押し寄せ一時騒然とする。
- ^ 《昔から出したいと思ってたんだよね(蘭丸)》《やっぱりさ、イイものは残しときたいじゃん(ズズ)》《いい音ができたからレコードにする訳でさ。俺たちずっと前からライブ・アルバムって創りたかったんだよ(ハリー)》。以前からライブの度に音は録ってあり、いい音が録れたらと機会を狙っていた。トラック・ダウンはベルリンのハンザトン・スタジオ。ミキサーは『天使たち』のマイケル・ツィマリング。この頃のマイケルはスライダーズにとって欠かせない人物になっている。『THE STREET SLIDERS:1月30日で武道館伝説は終わった』、大桃紀子、アリーナ37℃、音楽専科社、1987年4月号。
- ^ 《…武道館での音を聴いた時、彼らは「俺たちのやりたいことがダイレクトに出ている」と感じた。それでベルリンにそのテープを持って行った。ミックス・ダウンを終えて帰ってくると、毎日その“THE LIVE!”を聴いていた》『ザ・ストリート・スライダーズ “ザ ・ライヴ!”』、関陽子、アリーナ37℃、音楽専科社、1987年5月号。
- ^ プロデューサーはザ・クラッシュやファン・ボーイ・スリー、トッパー・ヒードンなどを手掛けたジェレミー・グリーン。エンジニアはキース・フェルナンデスが参加している。このアルバムからスライダーズの曲の中にレゲエのリズムが取り入れられていく。
- ^ 1987年8月22日佐野元春 with THE HEARTLAND、HOUND DOG、BOØWY、尾崎豊、渡辺美里、ザ・ストリート・スライダースら全13組。県内外から70,000人以上の若者が集まった。野外で行われたこのライヴは、夕方から大雨洪水雷雨注意報が出され、幕を開けた時点で既に激しい雨と風が野外ステージと観客を襲っていた。スライダーズの登場は深夜の真夜中過ぎで、観客の疲労もピークに達する頃であった。翌年の1988年にはマザーグループに所属するアーティスト5組のステージをまとめたフィルム・コンサート『ビート・チャイルド(マザー編)』が全国で行われている。さらに2013年秋にもドキュメンタリー映画として再構成され、合計10組のアーティストのライヴステージと裏方スタッフや楽屋の様子をまとめた映画『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』が全国の映画館で限定上映されている 、九州熊本県阿蘇郡久木野村にある県営野外劇場アスペクタで行なわれた12時間のオールナイト野外ライヴ。出演アーティストは、
- ^ 9月24日に踵複雑骨折
- ^ ミキサーはミック・ジャガーのソロ・アルバムを手がけたエド・ステイシアム(ED STASIUM)。
- ^ このステージでバンドは「Angel Duster」を、JOY-POPSでのアコースティックの演奏を基本とし、それをフィード・バックした形で、本来とは全く異なるアレンジで演奏した。『THE STREET SLIDERS NOT TOO BAD LIVE!!』、関陽子、アリーナ37℃、6月号、株式会社音楽専科社、昭和63年
- ^ 「…今回のアルバムは…まずオレたちがプロデュースする、したいってところがあって、バンドで音を固めていく時も『天使たち』や『BAD INFLUENCE』は、まずオレたちで固めちゃってから後のプラスアルファをプロデューサーやエンジニアに期待してたところもあるし。“やり方”を“見たい”ってところがあった。その人たちがどんな風にやるのかを。でも今回は全部オレたちのセンスでまとめたかったんだ(蘭丸)」インタビュアー佐伯明「ARENA 37°FRONT ISSUE THE STREET SLIDERS “SCREW DRIVER”INTERVIEW」『アリーナ37℃』2月号、音楽専科社、1989年
- ^ ジェームス「やっぱりライブの方を中心にやってたって感じかな? ツアーも2回あったし」、蘭丸「レコードの間隔があいたからといって、休んでたわけじゃないしね。《ROUTE S・S》でそれまでとまた違った形で曲を発表しようってことになった。ツアーに挟まれた感じかな。アルバム中心には考えづらいってところはあるよね」インタビュアー佐伯明「THE STREET SLIDERS 馬鹿になったような、利口になったような」『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 鈴木の事故によるバンド活動の休止や、この後の無期限活動休止がなければ、ユニットのJOY-POPSや土屋のソロ活動は考えられなかったとインタビューで語っている。
- ^ インタビュー大野祥之「THE STREET SLIDERS:スライダーズのBAD感覚」P55-P57『Rockin'f』立東社(発売当時。現アポロコミュニケーション)掲載年月日確認中
- ^ 鈴木将雄「(ROUTE S.Sが違った見方を備える引き金に)…個人的には細かいところでなったんじゃないかな?」「一番はやっぱりビート関係だろうね。そこから見えてくるモノは多かった」「まずはオレとジェームスのコンビネーションにおいてすごくクリアになったことがある。(中略)それがバンド全体にも広がったんじゃないかと」、インタビュアー佐伯明「THE STREET SLIDERS 馬鹿になったような、利口になったような」『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 土屋“蘭丸”公平「…前回(ROUTE S.S)のツアーあたりから、こう…(中略)ああ、この辺りでメンバーがイイ感じでまとまるんだなって思った。(日比谷)野音で一つ確認できたし。…(中略)言ってみれば、“軽み”みたいなモノでさ。やっぱ新しい感触が手に入れば、新曲にブチ込みたくなる」、インタビュアー佐伯明『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 《(今回のクレジットは全編JOY-POPSになってますが、曲を書く時間よりもそれを整理して絞ってゆく時間の方が長かった?)そうだね。できるまで、音として出てくるまでが長かったからね。》村越弘明。インタビュアー佐伯明『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 《…だから、アルバムのテーマを一つ決めて、それに向かって曲を創っていくってパターンじゃないからさ。日頃やっぱりツアーやってレコーディングやってって大きなサイクルで過ごしてるから。どの時期にアルバム出すかで、自分達を再確認するんだよ。この辺に向かってたんだなってことが曲を見てわかる。(曲の中に)方向性があるような気がするんだ。》土屋“蘭丸”公平。インタビュアー佐伯明『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 正確には、7thアルバム『BAD INFLUENCE』収録曲「Baby, 途方に暮れてるのさ」にて既にレゲエのリズムが取り入れられている。
- ^ 《…俺達の中からもまた別の欲求が出てきて、気持ちと一緒に変化してきたんではないかと。実際そうでね。《NASTY CHILDREN》や《SCREW DRIVER》とか、あの辺でも、またそういう…自分の中で。それがバンドに反映してくるわけよね、当然ね。結構いろいろ自分の中で、試みた部分というかな(中略)だから《Baby, 途方に暮れてるのさ》もね、結構レゲエにいっててね。まあ、レゲエにいってたというよりもスライ&ロビーにいってたという。そういう部分でちょっとああいうスタイルもさ、自分の中からやってみたいなっていう…。》鈴木将雄。「祝!デビュー10周年特別企画メンバーインタビュー」、P18、『SLIDER JOINT』56号、Street Sliders Community、1993年。
- ^ 《これはリズム隊についての話になっちゃうけど、いわゆる16ビートものにしても、レゲエもんにしても、あとバラードにしても、ハッキリしてきたことを一つ演ってみたかったんだよね。(略)新しいレコードに入ってる《PANORAMA》や《FRIENDS》なんかは、今までのスライダーズの解釈からはちょっと離れている。(ZUZU)》鈴木将雄。インタビュアー佐伯明『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ “『NASTY CHILDREN』の後、なぜこの時期にこうなったのか(長期活動休止)”というインタビュアーの質問に対し、村越が答えるインタビューがある。《…個人的なことを言わせてもらえば、『NASTY CHILDREN』なんかに関してはすごくいい仕事ができたんだけど、こう、ロンドン行って何曲かやって、日本でまた何曲かやってみたいな感じでやってたのがすごくなんか辛かったんですよね。すごく消耗しちゃってね…》《…もう、長い間の積み重ねっていうかね。なんかそういう部分でちょっと神経がまいっちゃったみたいなこともあったんで。》「村越弘明 音楽が持っている力に感謝したい気分です」1995年4月インタビュー:山崎洋一郎、p338-337。『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディ』、株式会社ロッキング・オン、1995年
- ^ 『NASTY CHILDREN』の後冬眠するという村越の決断について、後のインタビューで次のように答えている。《…あとは個人的な問題で、魑魅魍魎というかモノノケに取り憑かれてた部分があったんでね、今考えると。その時点ではオレ自身の問題ってのが大きかったんじゃないかと思いますけど。》《…じわりじわりとそれ以前から始まってましたよね。バンドを続けることが逆にマイナスだと思いましたからね。》《…バイオリズムっていうのを感じながらもガンガン行ける時期-たとえば『天使たち』の頃ってものすごく忙しかったんですけど、その頃はこなせたんだよね、全然…と、そうじゃない負の、ハマってしまうほうにどっぷり行く時期もあって…。そっちへ行くとね、それを無視してなにが作れるんだろうってオレは思うんでね…。》インタビュアー佐伯明「THE STREET SLIDERS 12年の時の流れと4年半ぶりに出された結論」『アリーナ37℃』5月号、音楽専科社、1995年
- ^ 『TOUR 不滅』の後、大阪、愛知、東京にてツアー・スペシャル『D・D DANCE』を開催。
- ^ (WRECKAGEがセルフ・プロデュースだったことについて)《…4人の中にスライダーズを取り戻すっていうことがありましたからね。だからプロデューサーをたてる必要性は感じなかった。今回のレコーディングはゲスト・プレーヤーもいないし、ダビングもすごく少なかった。(土屋公平)》インタビュー阿部康宏「土屋公平・BADな状況から逃げ出さずにやってきたことを誇りに思っています。」、P9-12、『Rockin'f』、立東社(発売当時。現アポロコミュニケーション)、1995年。
- ^ 2001年に発売された最後の武道館での解散ライヴを収めたライブ・アルバム『LAST LIVE』は、バンド解散後の発売につき、トータル枚数に加算しない。
出典
- ^ 『タイクツってやつに、ケリ入れて!』野本健、p16。
- ^ 「鈴木将雄ヒストリーインタビュー」1995年2月インタビュー:山崎洋一郎 p120。『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディ』、株式会社ロッキング・オン、1995年。
- ^ 『タイクツってやつに、ケリ入れて!』野本健、p29-34。
- ^ 『タイクツってやつに、ケリ入れて!』野本健、p36-37。
- ^ 「土屋公平 俺にとってはロックンロールっていうのは宗教みたいなものなんだ」1989年5月インタビュー:佐藤健p183。『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディ』、株式会社ロッキング・オン、1995年。
- ^ 『タイクツってやつに、ケリいれて!』/ The Street Sliders Story』野本健 アリーナ37℃臨時増刊 音楽専科社、1984年。P42
- ^ “過去のオーディション1980~”. Sony Music Audition. ソニーミュージック. 2021年5月6日閲覧。
- ^ 「村越弘明 音楽が持っている力に感謝したい気分です」1995年4月インタビュー:山崎洋一郎、p325。『ストリート・スライダーズ 聖者のラプソディ』、株式会社ロッキング・オン、1995年。
- ^ 都内ホテルで祝賀パーティなども催された。『THE STREET SLIDERS LAST LIVE』、佐伯明、アリーナ37℃、音楽専科社。
- ^ 「THE STREET SLIDERS 馬鹿になったような、利口になったような」P395、インタビュアー佐伯明『アリーナ37℃』1月号、音楽専科社、1991年
- ^ 「Easy,New Year's Day Tour」、P2、『SLIDER JOINT』46号、Street Sliders Community、1991年。
- ^ The Street Sliders TOUR 2023 「ROCK’N’ROLL」https://www.sonymusic.co.jp/artist/TheStreetSliders/live/?_ga=2.95905692.1824815250.1684195245-2015129135.1684195245
- ^ 40th Anniversary Final THE STREET SLIDERS「Thank You!」 https://www.sonymusic.co.jp/artist/TheStreetSliders/live/?_ga=2.114732611.598450697.1702382082-2056727509.1702382082
- ^ THE STREET SLIDERS、40周年再始動を総括 後続バンドに影響を与え続けるロックへの真摯な思い https://realsound.jp/2024/04/post-1620425.html
- ^ 【ライブレポート】ザ ・ストリート・スライダーズ 、日比谷野外大音楽堂で至極のリズム&ブルースが響き渡った特別な夜。2024年4月24日付 https://www.thefirsttimes.jp/report/0000415967/
- ^ “THE STREET SLIDERS、デビュー35周年記念シングル全集リリース”. ナタリー (2018年4月25日). 2018年6月8日閲覧。
- 1 THE STREET SLIDERSとは
- 2 THE STREET SLIDERSの概要
- 3 メンバー
- 4 ディスコグラフィ
- 5 映像作品
- 6 関連書籍
- 7 脚注
- ザ・ストリート・スライダーズのページへのリンク