ザカートとサダカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 07:57 UTC 版)
喜捨を指す語としてはザカートとサダカがあり、現代においてはザカートを制度喜捨、サダカを自由喜捨として区別している。 コーラン(詩:9:60)で、全能のアッラーは言います、「施しは、フカラ(貧しい人々)、アル・マサキン(貧しい人々)、そして集めるために雇われた人々(資金)のためだけのものです。そして(イスラム教に向かって)傾倒している人々の心を引き付けること。そして捕虜を解放するために;そして借金をしている人たちのために。アッラーの道のために、そして旅人(すべてから切り離された旅行者)のために。アッラーによって課せられた義務。アッラーは全知にして全知であられる。 ただしクルアーンにおいては両者とも自由な喜捨を意味した。預言者ムハンマドは「サダカ」という名で、神に仕える者の徳目として自由な喜捨を推奨していたが、義務ではなかった。のちに(630年以後)新たに従った部族に対する喜捨の義務化がおこなわれ、初代カリフたるアブー・バクル以降、現在につながる定義がウラマーらにより策定・法制化されていった。ただし、元来がムハンマド自身によっても区別されていなかったこともあり、とくに初期の文献には二つの混用が見られる。そのためサダカの性格を明らかにするため、サダカ・アッタタッウー(自発的サダカ)という二重化した言い回しが用いられることがある。 シャリーア成文化の時代のウラマーたちは、サダカよりもザカートのほうがクルアーンにで出てくる回数が多いことから、義務としての喜捨をザカート、自発的喜捨をサダカと呼んだのであろうと推測される。 下記に見られるように、ザカートというのは内容的にはムスリムに課せられた財産税で、貧者の救済を主眼におく目的税であることから、救貧税と訳されることも多い。これには「喜捨という響きからは義務的・定率的なものが感じられず、社会学的な実態を反映できない」という主張からこの語を使う研究者もいるということも挙げられるかもしれない。一方にはキリスト教の救貧税とはかなり異なることや、ザカートとサダカが、宗教的な「施し・喜捨」の観念のもと一体化してイスラム共同体の社会福祉システムとして働いている現実などから「やはり喜捨と訳すべきだ」とも考えられる。 「今日のあなたに財産を成すようになったのは、全てアッラー(の意志・働きかけ)に依るもの(その個人だけでは何ひとつ成し得なかったではないか)」故、同様に帰依する者たちへ、分け与える(ことを信仰の証とする)もの。(対比参考:LUCA3-11)
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