ザイエン戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:20 UTC 版)
「フランス保護領モロッコ」の記事における「ザイエン戦争」の解説
詳細は「ザイエン戦争(英語版、フランス語版、カタルーニャ語版、アラビア語版)」および「Mouha ou Hammou Zayani(英語版)」を参照 モロッコのベルベル人のザイエン連合(英語版)は、1914年から1921年にかけて、フランスに対して反乱を起こした。総督ユベール・リヨテ(英語版)は、フランスの影響力を中央アトラス山脈(英語版)を通ってフランス領アルジェリアに向かって東に拡大しようとした。これはMouha ou Hammou Zayani(英語版)率いるザイエン族によって反対された。戦争はフランスにとって有利に始まり、フランスはすぐにタザ(英語版)とヘニフラ(英語版)の主要な町を占領した。一方、ザイエン族はヘニフラでの基地を失ったにもかかわらず、フランスに大きな損害を与えた。 第一次世界大戦の勃発に際し、フランスはヨーロッパでの従軍ために軍隊を撤退させた。また、フランスはエルヘリの戦い(英語版)で600人以上を失った。その後の4年間、中央同盟国によるザイエン連合への諜報活動と財政的支援、および不足しているフランスの人員を減らす、絶え間ない襲撃と小競り合いにもかかわらず、フランスは領土のほとんどを保持した。 1918年11月のドイツとの休戦後も、部族のかなりの勢力がフランスの支配に反発続けた。フランスは1920年にヘニフラ地域での攻撃を再会し、ザイエン族の運動の自由を制限するために一連のブロックハウスを建てた。フランスはハムーの息子たちと交渉を始め、3人の息子と多くの従者を説得し、フランスの支配に服従させた。ザイエン連合では、服従を支持する者と反対する者とに分かれて内紛が起こり、1921年春にハンムーが亡くなった。フランスはこれに対し、中央アトラス山脈に3方向から強力に攻め込み、この地域を平和にした。モハ・オウ・サイード(英語版)が率いる一部の部族は、アトラス高地に逃れ、1930年代までフランスに対するゲリラ戦を続けた。
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