サラエヴォ事件とは? わかりやすく解説

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サラエヴォ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 05:22 UTC 版)

オーストリアの歴史」の記事における「サラエヴォ事件」の解説

詳細は「サラエヴォ事件」を参照 1908年オスマン帝国青年トルコ人革命がおきると、30年前から支配下においていたボスニア・ヘルツェゴビナの併合宣言した。これによってこの地域にあるセルビア王国との団結を叫ぶ汎スラブ主義芽を摘む対策にでた。汎スラヴ主義掲げロシア帝国との合意も得、オスマン帝国には5,200クローネ代償支払うなど周到な根回しをした合併であった。しかし、この地域民族主義者たちの反発は買い、「民族防衛団」、「ボスニア青年党」などの結社生み出すことになる。 ハプスブルク家ではこの頃皇太子ルドルフ自殺しフランツ・ヨーゼフ帝の甥のフランツ・フェルディナント大公皇位継承者となっていた。大公帝国民族主義揺さぶり受けていることを危惧し、「二重帝国」をさらに「三重帝国」へと再編する道も模索していた。 1914年6月28日フランツ・フェルディナント大公が妃とともにボスニアサラエヴォ訪問の際、ガブリロ・プリンチプによって射殺される事件起こった(サラエヴォ事件)。帝国政府は、実行犯が「大セルビア主義標榜するセルビア人青年だったことから、セルビア関与指摘した真相は藪の中のまま、帝国内での強硬派セルビアとの戦争主張しドイツ帝国支援取り付けた上で7月23日にはセルビア最後通牒突きつけた。しかし、セルビアロシアの強い後ろ盾恃み、これを拒否したため、7月25日には国交断絶した28日にはオーストリア・ハンガリー帝国セルビア宣戦布告し人類史上空前の規模となる世界大戦が始まることになった

※この「サラエヴォ事件」の解説は、「オーストリアの歴史」の解説の一部です。
「サラエヴォ事件」を含む「オーストリアの歴史」の記事については、「オーストリアの歴史」の概要を参照ください。

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