コンノート・トンネルとトランスカナダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24 03:29 UTC 版)
「グレーシャー国立公園」の記事における「コンノート・トンネルとトランスカナダ」の解説
1886年の最初の冬の訪れを迎えて、CPRにとってロジャーズ峠の多量の降雪が重大な障害になることが明らかになった。雪崩から線路を守るため、いたるところにスノーシェードが築かれている。しかしこのシェードは木製だったため、夏の間に火災の原因となり、結果として、夏季専用の路線がひかれることとなった。1910年、雪崩のデブリの除去作業を行っていたところをアバランチ山脈から別の雪崩(英語版)が襲い、62名の死者が生じた。この雪崩による死者の半分以上が日系人だった。1886年から1916年にかけて、全体で200人の鉄道職員が殉職している。1912年、CPRは敗北を認め、峠とマクドナルド山(英語版)の地下に8キロメートルに及ぶトンネルの建設を開始した。このコンノート・トンネル(英語版)は1916年に開通した。 この新トンネルはグレーシャー・ハウスを沿線から外すこととなり、鉄道客の喪失はこの有名だったホテルの息の根を止めることとなった。1925年にホテルは閉館し、その4年後に取り壊された。その後30年間、カナダ登山家クラブ(英語版)のサマーキャンプを除き、訪問客はわずかでした。この時点まで、コロンビア山脈を横断しようとする自動車は、コロンビア川上流部の大きな北への屈曲に沿って走る遠回りな「ビッグベンドハイウェイ」を使わなければならなかった。コロンビア川条約(英語版)によって締結された谷筋の大規模な治水事業の遂行のためにも、新たなハイウェイルートが必要とされていた。1963年にはロジャーズ峠を越えるトランスカナダハイウェイが完成し、大勢の観光客を公園に取り戻した。パークス・カナダは新たに複数のキャンプ場を設置し、遊歩道を拡充した。
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