ゲットーの形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
15世紀初頭の1412年頃、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレールが鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、1412年にはスペインで初めてのゲットーが築かれた。 スペインをはじめとして、中世末期には従来のユダヤ人居住地が、ゲットーへと変化していった。1432年にドイツのフランクフルトにおいて、教会や市民の要望で繁華街に住んでいたユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が始まり、1462年、皇帝フリードリヒ3世命で市が建設したフランクフルト・ゲットーが完成し、ユダヤ人が強制移住させられた。ゲットーには門が設けられ、ユダヤ人は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は夜警によって施錠された。また、日曜日やキリスト教祭日もゲットーからキリスト教徒の街区への外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された。 各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた。
※この「ゲットーの形成」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「ゲットーの形成」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- ゲットーの形成のページへのリンク