クロンメルとマンスター侵略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:52 UTC 版)
「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「クロンメルとマンスター侵略」の解説
詳細は「クロンメル包囲戦」を参照 春が来ると、クロムウェルは残っていたアイルランド南東部の城塞都市を掃討した。こちらはカトリック同盟の首都であったキルケニーが交渉に従って降伏したことが特筆される。ニューモデル軍は1650年4月から5月に行ったクロンメル包囲戦(英語版)で、城壁を攻撃した際に撃退され最大2000人もの死傷者を出し、この侵略で唯一となる手痛いしっぺ返しを受けた。にもかかわらず町は翌日に降伏している。 キルケニーやクロンメルにおける彼のふるまいはドロヘダやウェックスフォードでのそれと対比されるかもしれない。クロムウェル軍は先述の2つの都市で大きな損害を受けていたにもかかわらず、市民の生命と財産の保証、さらには都市を守っていた(武装を解除していない)アイルランド軍兵士の退避が盛り込まれている降伏条約を、クロムウェルは尊重した。議会派の司令官側のこのような姿勢の変化は、過度の虐殺がアイルランドの抵抗を長引かせていたことを認めていたためかもしれない。一方で、ドロヘダとウェックスフォードでは降伏合意は成立しておらず、17世紀中期のヨーロッパ本土での一般的な攻城戦ルールからすれば、このような場合は慈悲は与えられなかった。この点をもってクロムウェルの姿勢は変わっていなかったと主張することもできる。 オーモンド侯率いる国王派はいまだに南部マンスター地方の大部分を保持していたが、コークに位置する味方の要塞で反乱が起きて裏をかかれることになった。反乱を起こしたのはブリテン島から赴任していたプロテスタント軍で、1648年までは議会派として戦っており、カトリック同盟と共に闘うことには腸が煮え繰り返る思いであった。反乱軍はコークとマンスターの大部分をクロムウェルに引き渡し、さらに在郷のアイルランド人駐留軍を5月10日のマクルームの戦い(英語版)で打ち破った。アイルランド軍と国王派軍はシャノン川を超えて西部のコノート地方に撤退し、マンスターにとどまった軍はケリー県の要塞に撤退した。
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