キャプテン・キッドによる掠奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 14:15 UTC 版)
「ケダー・マーチャント」の記事における「キャプテン・キッドによる掠奪」の解説
1698年1月30日、コーチから約25海里の海域で、アドベンチャー・ギャレー号の船長キャプテン・キッドがケダー・マーチャントを発見、追跡した。約4時間後、アドベンチャー・ギャレーはケダーに追いつくとフランス国旗を掲げ、船長にギャレーに乗り移るよう命じた。ボートでやってきたひとりのフランス人が船に足を踏み入れるや、キッドはアドベンチャー・ギャレーに英国旗を掲げさせた。国旗が掛け替えられるのを見たこのフランス人は掠奪を悟り、「俺たちが戦利品になっちまった」と言ったという。 いかなる敵国船も海賊船も掠奪せよとの任務をキッドは受けていた。彼が複数の英国人貴族たちと結んでいた契約は、全ての戦利品を英国に持ち帰り、財宝を彼自身と乗組員、スポンサーたちで分け合うというものだった。ケダー・マーチャントはインド人の所有であったがアルメニア旗を掲げており、船長は英国人で乗組員のほとんどはインド人と、キッドの任務には合致していないようだった。英国の敵国であったフランスにより航海の安全を保証されていたことが、この掠奪が一応は合法であるとする根拠だった。 キッドとクルーたちがケダー・マーチャントの臨検を開始し掠奪品のリストアップを行った際、件のフランス人は実は彼は船長ではなく、ジョン・ライトがその任にあるのだと口にした。キッドは甲板下にいたライト船長を探し当てたが、彼は自分が船長であることを否定した。彼はフランスの通行証によってその身分を保証されていたが、これに「レッテ(Rette)操舵士」とサインしていた。ライトは英国東インド会社の総督が航海を仲介していることも告げた。キッドはこの掠奪が英国で問題を引き起こすだろうことに気づき、船とその積み荷を掠奪するか、もしくはアルメニア商人たちに売り返すか、乗組員による投票で決定することにした。船と積み荷を実際の1/20の価格で買い取ることをコギ・ババ(Cogi Baba)という人物が申し出たが、キッド側の乗組員がこれに反対した。これが合法的な掠奪だと考えていたキッドは投票に反対しなかった。 甲板下にあった数百の梱が、ムガル帝国と親しいムクリス・カーン(Muklis Khan)という貴族の持ち物であることを、不運にもキッドは知らなかった。アドベンチャー・ギャレー、ケダー・マーチャント、それにキッドに掠奪されノヴェンバーと名を変えられたルーパレル号の乗組員たちは、コーチとカリギヨン港へ向けて舵を切った。いくらか品物を売って英国への航海費を用立てるためだった。かなりの量の積み荷を金に換えると、彼を捕らえようとしていたオランダ東インド会社の4隻の船から逃れようと、キッドは急いで港を離れた。船団がはぐれてしまった場合には、マダガスカルのサント・マリー島で落ち合おうと命じた。
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