カンザスシティ婦人刑務所の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 23:17 UTC 版)
「ローレンスの虐殺」の記事における「カンザスシティ婦人刑務所の崩壊」の解説
カンザス州でミズーリ州のゲリラ襲撃隊の活動を抑えるために、北軍のトマス・ユーイング・ジュニア将軍は1863年4月に「一般命令10号」を発布し、南軍ゲリラを援助し便宜を図った者なら誰でも逮捕することを命じていた。このことは主にゲリラの親戚である女性や少女を対象にしていた。ユーイングはそれら逮捕した者達をカンザスシティの一連の間に合わせの刑務所に押し込めていた。女性たちはまずあまりに小さくあまりに不衛生と考えられる2つの建物に入れられ、その後グランド1425にあった空き家に移された。この建物は、画家ジョージ・ケイレブ・ビンガムの義父、故ロバート・S・トーマスの敷地にあった。1861年にビンガムとその家族がこの建物に住んでいたが、1862年初期にはミズーリ州財務官に指名され、家族ごとジェファーソンシティに引っ越していた。ビンガムはそのスタジオとして使うために既存の建物に三階部分を追加していた。 1863年8月13日、少なくとも10人の女性と少女、全員が20歳未満の者達がこの建物に収監されているときに、建物が崩壊し、4人が死んだ。死者はチャリティ・マコークル・カー、スーザン・クロウフォード・バンデバー、アーメニア・クロウフォード・セルビー、およびジョセフィーヌ・アンダーソンであり、アンダーソンは南軍のウィリアム・T・"ブラッディ・ビル"・アンダーソンの15歳の妹だった。アンダーソンの13歳の妹もこの監獄で拘束されており、脚を2か所骨折するなど大けがを負った。この建物は衛兵によって強度を落とされていたのが崩壊に繋がったという噂が広まった。所有者のヒンガムは個人的にユーイングに対して恨みがあり、また建物の喪失に対して賠償を求めることになったが、後にその噂を広げた。しかし1995年に行われたこの事件と崩壊に伴う証言の研究では、「理論上最も有り得ない話だ」と結論付けている。証言によると、兵舎として使うために隣接するコックレルの建物の一階部分を改装したことが、共有の壁を座屈させたことを示していた。ヒンガムの元住居に加えられた三階部分の重みが崩壊に繋がった。 この監獄の崩壊前であっても、少女たちの逮捕と追放計画はクァントリルのゲリラ隊を怒らせていた。ジョージ・トッドは、少女たちを解放しなければ、カンザスシティを燃やすと脅しをかけるメモを残していた。クァントリルのローレンス襲撃は監獄の崩壊前に計画されていたが、ゲリラの親戚である女性が死んだことで、襲撃中に報復と血への渇望が増したことは疑いない。
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